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アガンベン・メモ(b11)

1・10
今回は、「ト・ティ・エーン・エイナイ」についての文法的な議論です。

「文法的構造の分析」「尋常でない文法的構造」
「クルト・アルペ」「「ト・ティ・エーン・エイナイ」の意味を把握するためにはその定位を二つの与格をもって補完してみる必要があるという。純粋の与格と述語的与格である。」
「アリストテレスは通常、本質を述語するさいにそれを述語的与格によって表現している。」「"to soi einai"(「きみであること」定義どおりには「きみに存在を与えること」)」
「この特定の人間の人間であることについて語っているのだから、その定式のなかに純粋のあるいは具体的な与格を挿入する必要がある。《このことによって》とアルペは書いている、《ト・ティ・エーン・エイナイという問いの文法的構造が明確にされる。それは、理解されるためには、純粋な与格と同化によって産み出される述語的与格をつうじて補完されることを要求しているのである。ト(to)という冠詞を前に置くことよって、その定式は問いへの答えという意味を獲得する》と」

「「ト・ティ・エーン・エイナイ」は(人間の場合には)「X(ソクラテス)にとって存在する(ソクラテス、エマ)とはなんであったかということ」を意味している。その定式は、ある特定の存在者のウーシアを、「この特定の存在にとって存在するとはなにであるか」という問いを「その特定の存在者にとって存在するとはなんであったかということ」という答えに変換することによって表現しているのである。」

注:「「ト・ティ・エーン・エイナイ」という定式には、「存在するとはなんであったのかということ」と「〈なにであったか〉存在」という二つの翻訳が可能である。その二つとも、なんらかの仕方で維持されねばならない。というのも、その定式は一方から他方へと両者がけっして符合することはできないままに移動していくありさまを正確に表現しているからである。」「《ヒュポケイメノンとト・ティ・エーン・エイナイという二つの術語を使用するさいにそこに込められている二つの意味が名指されている》」
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脳科学の射程

 脳科学は、現在きわめて広範な問題領域をまきこんで展開中である。その中には、宗教研究も含まれる。宗教研究と脳科学とを関連づける上で注目すべきテーマはいくつか考えられるが、その一つは、病であろう。病における身体と心の繋がりあるいは人格は、脳と宗教とに共通の問題であり、両方の研究分野の知見を相互参照することは、有益な展開を可能にするかも知れない。そうした中で、次の文献は、興味深い問題を提起している。

恩蔵絢子
『脳科学者の母が、認知症になる──記憶を失うと、その人は〝その人〟でなくなるのか?』
河出書房新社、2018年。

はじめに 医者ではなく脳科学者として、母を見つめる

1 六五歳の母が、アルツハイマー型認知症になった
2 アルツハイマー型認知症とはどんな病気か
3 「治す」ではなく「やれる」ことは何か──脳科学的処方箋
4 「その人」らしさとは何か──自己と他者を分けるもの
5 感情こそ知性である

おわりに 父母と竿灯まつりに行く

参考文献

 認知症は、人間の核心的問題を問うている。その人は何者か、わたしとは何者か、人格とは知性とは。
 人格やその人らしさという問題は、個に集約できる問題ではなく関わり・関係性を視野に入れる必要がある。「認知能力が失われても、残るものは何か」との問いは重い。「感情こそ知性である」「感情が知性を生み出している」が脳科学の知見であるとすれば、それは宗教研究から遠くない。

キリスト教とジェンダー問題

 現代のキリスト教思想において、性、ジェンダーをめぐる問題は、大きな争点を形成している。また、このをテーマは、キリスト教と現代思想の重要な接点であって、その点からも、本格的な取り組みが必要である。この問題の広がりと、キリスト教との関わりを考える上で、参照できる論集を取り上げたい。

大越愛子・倉橋耕平編
『ジェンダーとセクシュアリティ──現代社会に育つまなざし』
昭和堂、2014年。

はじめに (大越愛子)

第Ⅰ部 個人的なことは政治的である
 第1章 個人的体験を政治化する
     ──私と/フェミニズム
     (大越愛子)
 第2章 男性性への疑問
     (倉橋耕平)
 第3章 化粧という些細で重要な問題
     ──〈私〉という経験を通じて
     (玉置育子)

第Ⅱ部 政治的なことを問い直す
     ──メディア・宗教・生殖・ケア
 第4章 〈慰安婦〉と〈性奴隷〉をめぐるジャーナリズム史
     (倉橋耕平)
 第5章 宗教とフェミニズム
     ──キリスト教の中の性差別
     (堀江有里)
 第6章 「子どもを産む」とはいかなることか
     ──自然から自由へ
     (大越愛子)
 第7章 リベラリズムとフェミニズム
     ──ケアを誰がどのように担うべきか
     (掘田義太郎)
 コラム:9本(詳細省略)

あとがき (倉橋耕平)
索引 
  
  

文化の神学 映画・追加2

 前回に続き、映画関係の文献を追加します。これは、本ブログで、以前に「キリスト新聞」の紹介を行っていた時期に、キリスト新聞に連載されていた記事などが、一冊にまとめられたものであり、この連載はかなりに部分、本ブログでは紹介済みです。しかし、ほかの文章などが加わり、また加筆修正された部分もあるようですので、再度、取り上げたいと思います。

服部弘一郎
『銀幕の中のキリスト教──「ベン・ハー」から「スーパーマン」まで全49作を徹底解説』
キリスト新聞社、2019年。

序章
第1章 聖書映画とキリスト教映画
第2章 イエスのいないキリスト列伝
   「1.地球が静止する日(1951)」など16作品
第3章 名画からキリスト教を読む
   「1.イントレランス(1916)」など12作品
第4章 神なき時代のキリスト教映画
   「1.汚れた顔の天使(1938)」など21作品
第5章 特別対談
   「シネマとイエスと、時々、聖書」
   服部弘一郎×青木保憲
終章

 一つの作品が、2頁で「概要」「あらすじ」「解説」の順で紹介されており、授業などで使うには、便利な構成になっている。わたくしも、これまで、そしてこれからも、随時使わせていただく予定である。 

文化の神学 映画・追加1

 数年前に、「文化の神学」というカテゴリで、映画、音楽、文学などをキリスト教との関わりで論じた文献を紹介した。この連載は、かなりの回数続いたが、この間、休止状態であった(本ブログでは、よくある話である)。今回、映画に関連した文献を取り上げるために、一時、この連載を再開する。

岡田温司
『映画とキリスト』
みすず書房、2017年。

はじめに

Ⅰ 映画と宗教、あるいは映画という宗教
Ⅱ サイレントのイエス
Ⅲ イメージの力、言葉の力、音楽の力──パゾリーニ『奇跡の丘』
Ⅳ 変容するイエス像
Ⅴ その子はいかにして生まれたのか
Ⅵ 脇役たちの活躍──イスカリオテのユダとマグダラのマリア
Ⅶ キリストに倣って
Ⅷ 「聖なる愚者」たち
Ⅸ 「クリスタ」たち
Ⅹ 瀆聖

おわりに
参考文献
人名・映画作品索引

第一章のはじまりの部分から
「映画とはそもそも宗教的なものである。ここで「そもそも」といったのは、物語のテーマや内容いかんいかかわらず、それ自体において本来的に、という意味である。つまり、映画そのものがある種の宗教性を帯びているということだ。このことはまた、製作と鑑賞のどちらにも当てはまるし、製作者や鑑賞者が信仰をもつか否かを問わない。しかも、何か特定の宗教に限られたわけではない。」(8)

 この導入は、キリスト教思想では、たとえば、ティリッヒの言う、広義と狭義の宗教概念、さらに広義の宗教芸術と狭義の宗教芸術との区別と関連という議論と合致するものであり、これだけでも、本書が、キリスト教思想との関わりで興味深いことが分かるであろう。こうした宗教理解は、デューイの形容詞の宗教と名詞の宗教にも重なり、また、文化におけるイエス像の多様性と変遷という議論は、ペリカンの有名な著書を思い起こさせる。

 今日は、センター試験の一日目、しばらくすると、試験開始。がんばれ、受験生。
プロフィール

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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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