FC2ブログ

キリスト教とジェンダー問題

 現代のキリスト教思想において、性、ジェンダーをめぐる問題は、大きな争点を形成している。また、このをテーマは、キリスト教と現代思想の重要な接点であって、その点からも、本格的な取り組みが必要である。この問題の広がりと、キリスト教との関わりを考える上で、参照できる論集を取り上げたい。

大越愛子・倉橋耕平編
『ジェンダーとセクシュアリティ──現代社会に育つまなざし』
昭和堂、2014年。

はじめに (大越愛子)

第Ⅰ部 個人的なことは政治的である
 第1章 個人的体験を政治化する
     ──私と/フェミニズム
     (大越愛子)
 第2章 男性性への疑問
     (倉橋耕平)
 第3章 化粧という些細で重要な問題
     ──〈私〉という経験を通じて
     (玉置育子)

第Ⅱ部 政治的なことを問い直す
     ──メディア・宗教・生殖・ケア
 第4章 〈慰安婦〉と〈性奴隷〉をめぐるジャーナリズム史
     (倉橋耕平)
 第5章 宗教とフェミニズム
     ──キリスト教の中の性差別
     (堀江有里)
 第6章 「子どもを産む」とはいかなることか
     ──自然から自由へ
     (大越愛子)
 第7章 リベラリズムとフェミニズム
     ──ケアを誰がどのように担うべきか
     (掘田義太郎)
 コラム:9本(詳細省略)

あとがき (倉橋耕平)
索引 
  
  
スポンサーサイト



文化の神学 映画・追加2

 前回に続き、映画関係の文献を追加します。これは、本ブログで、以前に「キリスト新聞」の紹介を行っていた時期に、キリスト新聞に連載されていた記事などが、一冊にまとめられたものであり、この連載はかなりに部分、本ブログでは紹介済みです。しかし、ほかの文章などが加わり、また加筆修正された部分もあるようですので、再度、取り上げたいと思います。

服部弘一郎
『銀幕の中のキリスト教──「ベン・ハー」から「スーパーマン」まで全49作を徹底解説』
キリスト新聞社、2019年。

序章
第1章 聖書映画とキリスト教映画
第2章 イエスのいないキリスト列伝
   「1.地球が静止する日(1951)」など16作品
第3章 名画からキリスト教を読む
   「1.イントレランス(1916)」など12作品
第4章 神なき時代のキリスト教映画
   「1.汚れた顔の天使(1938)」など21作品
第5章 特別対談
   「シネマとイエスと、時々、聖書」
   服部弘一郎×青木保憲
終章

 一つの作品が、2頁で「概要」「あらすじ」「解説」の順で紹介されており、授業などで使うには、便利な構成になっている。わたくしも、これまで、そしてこれからも、随時使わせていただく予定である。 

文化の神学 映画・追加1

 数年前に、「文化の神学」というカテゴリで、映画、音楽、文学などをキリスト教との関わりで論じた文献を紹介した。この連載は、かなりの回数続いたが、この間、休止状態であった(本ブログでは、よくある話である)。今回、映画に関連した文献を取り上げるために、一時、この連載を再開する。

岡田温司
『映画とキリスト』
みすず書房、2017年。

はじめに

Ⅰ 映画と宗教、あるいは映画という宗教
Ⅱ サイレントのイエス
Ⅲ イメージの力、言葉の力、音楽の力──パゾリーニ『奇跡の丘』
Ⅳ 変容するイエス像
Ⅴ その子はいかにして生まれたのか
Ⅵ 脇役たちの活躍──イスカリオテのユダとマグダラのマリア
Ⅶ キリストに倣って
Ⅷ 「聖なる愚者」たち
Ⅸ 「クリスタ」たち
Ⅹ 瀆聖

おわりに
参考文献
人名・映画作品索引

第一章のはじまりの部分から
「映画とはそもそも宗教的なものである。ここで「そもそも」といったのは、物語のテーマや内容いかんいかかわらず、それ自体において本来的に、という意味である。つまり、映画そのものがある種の宗教性を帯びているということだ。このことはまた、製作と鑑賞のどちらにも当てはまるし、製作者や鑑賞者が信仰をもつか否かを問わない。しかも、何か特定の宗教に限られたわけではない。」(8)

 この導入は、キリスト教思想では、たとえば、ティリッヒの言う、広義と狭義の宗教概念、さらに広義の宗教芸術と狭義の宗教芸術との区別と関連という議論と合致するものであり、これだけでも、本書が、キリスト教思想との関わりで興味深いことが分かるであろう。こうした宗教理解は、デューイの形容詞の宗教と名詞の宗教にも重なり、また、文化におけるイエス像の多様性と変遷という議論は、ペリカンの有名な著書を思い起こさせる。

 今日は、センター試験の一日目、しばらくすると、試験開始。がんばれ、受験生。

キリスト教から見た日本と中国

 東アジアの地域にとって、キリスト教は外来宗教として意識され、従来、伝統的な宗教文化との異質性が強調されてきた。しかし、この50年をみるとき、キリスト教は東アジアの宗教文化においてそれを構成する重要な位置を占めつつあることがわかる。こうした中で求められるのは、これまで十分に光が当てられてこなかった東アジアのキリスト教の歴史を再考する作業であり、資料の発掘・収集からその分析・解釈まで、議論を精密化することが求められる。
 こうした現在の研究状況において、重要な寄与をすると思われる著作が刊行された。日本の中国占領統治下における日本と中国のキリスト者の動向をめぐる研究であり、優れた歴史研究と評することができる。著者は、現代中国におけるキリスト教の動向についても積極的に発言を行っている研究者であり、この著作は、著者が北九州市立大学に提出し博士の学位を授与された博士論文が元になったものである。

松谷曄介
『日本中国占領統治と宗教政策──日中キリスト者の強力と抵抗』
明石書店、2020年。

「まえがき」に代えて (北九州市立大学名誉教授 横山宏章)

序章 日本による中国占領統治とキリスト教政策

Ⅰ部  政策
 第1章 中国占領地域に対する日本の宗教政策の形成
     ──キリスト教政策を中心に
 第2章 日本国内における宗教政策と中国政策の関連

Ⅱ部  組織
 第3章 中支宗教大同連盟をめぐる諸問題
 第4章 「中華基督教団」をめぐる諸問題

Ⅲ部  人物
 第5章 楊紹誠とその生涯
 第6章 日本人キリスト者と中国
   第1節 安村三郎と中国
   第2節 阿部義宗と中国
   第3節 賀川豊彦と中国
   第4節 矢内原忠雄と中国
   結論

終章 中国占領地域における宗教政策の諸相 

参考文献
あとがき
索引

 参考文献には、「アーカイブズ・档案館・資料館」が記載されており、有益である。 

本日のボンヘッファー

次の文献より、ボンヘッファーの言葉を引用します。

マンフレート・ヴェーバー編
『信じつつ祈りつつ──ボンヘッファー短章 366日』
新教出版社、1997年。

「羊飼いたちも、東方からやって来た博士たちも、飼葉桶のかたわらに立ったが、それは〈改心した罪人〉としてではなく、むしろ単純に、ありのままに飼葉桶の方から引き寄せられたためそうしたのである。」(WE 9)
(12月27日)

 今回の言葉は、クリスマスの季節ということで選ばれた言葉と思われるが、表面的にはわかりやすい内容ではあるが、よく考えるとこれだけでは意味が取りにくい(この言葉集全般に言えることである)。「改心」して、自分の自由意志・自発的にそうしたのではなく、「引き寄せられた」ということは、この出来事の主体は実は「イエス」の側にあったということになるのだろうか。あるいは、「導かれた」ということが言いたいのだろうか。この言葉だけでなく、まず、言葉の前後を確認する必要があるが、さまざまに思い巡らすのも楽しい作業である。
 
プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
Translation(自動翻訳)
FC2カウンター
カレンダー
12 | 2020/01 | 02
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR