雑誌紹介22

 新刊雑誌が届きましたので、紹介します。

京都哲学会
『哲学研究』 第602号、
京都大学学術出版会、2018年1月。

・藤田正勝 「京都学派の哲学の展開」

・満原健 「十九世紀ドイツ心理学と西田幾多郞『善の研究』」

・Masako KETA, Die Streuung und die Versammlung: Heidegger und das Denken vom Nichts.
 (氣多雅子『散らばりと取り集め──ハイデッガーと無の思惟』)

 第600号の記念号が、この間と思っていましたが、すでに602号となりました。出版社が代わりましたが、まったく違和感はありません。編集担当の方、ご苦労様です。
 今回の号は、京都学派で統一されている感じですが、『哲学研究』にふさわしいといえるかもしれません。
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『学術の動向』から

『学術の動向』 2018.2 (日本学術会議)が届きました。
本ブログでの『学術の動向』の紹介も、他の記事がずれこんだため、やや遅くなりました。『学術の動向』は、配布方法が変更になり、来年度からは、賛助会員になる必要があるようです。どうしたものかと、考えています。毎号が面白いというわけではありませんが、確かに「学術の動向」という点では、貴重な情報ですし・・・。
 今回は通常通り、特集は二つ、そして特別企画が一つです。特集は、「環境」がキーワードとなるようです。

【特集1】 中高生と考える「Future Earth と学校教育」
 環境、地球の未来というテーマにとって、確かに、学校教育での取り組みは大切になることは十分に理解できますが。

・「サステイナビリティ学におえる教育と人災育成」 (武内和彦)
・「Co-design, Co-productionのための教育と人材育成」 (春日文子)
・「人材育成における科学コミュニケーション能力の推進」 (眞木まどか・毛利衛)
・「資源・エネルギー問題と学校教育」 (田路和幸)
・「食の問題と学校教育」 (小金澤孝昭)
・「環境の改善や保全と学校教育」 (田中邦明)
・「Think Globaly, Act Locally──海洋マイクロプラスイチック問題をもとにして」 (小松輝久)
・「社会参画から持続可能な社会の担い手を育む──女子中高生の海底ごみ問題への挑戦」 (井上貴司)
・「学校教育に位置づけた海洋教育カリキュラム開発」 (日置光久)
・「新学習指導要領におけるアクティブ・ラーニング」 (井田仁康)

 「教育」から「人材養成」までの距離を感じるのは、わたくしだけだろうか。そもそも現在の中高の教育の現状はどうなっているのか。そこに新しく詰め込むというだけで、何が生まれるだろうか。環境教育を突破口にして、学校の、教育行政の閉塞性をなんとかするという議論にはならないのだろうか。

【特集2】アジアの経済発展と立地・環境 ─都市・農村関係の再構築を考える─
・「問題提起」 (中野聡)
・「開発主義の環境史的基盤──臨海工業地帯から内陸部への歴史的移動を考える」 (杉原薫)
・「臨海工業地帯と日本の軌跡──臨海開発・公害対策・自選保護」 (小堀聡)
・「アジアにおけるエネルギー・水・食料の総合的確保──ネクサス研究の新展開」 (谷口真人)
・「フューチャー・デザイン」 (西條辰義)
・「新しい「開発」の心性とは何か──「ポスト開発」時代の敏・農村関係と日本の挑戦」 (町村敬志)
・「まとめ」 (中野聡)

 フューチャー・デザイン、心性・・・、「ポスト開発」ですか。都市と農村は、文明の発端から延々と続く問題。

【特別企画】マズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞と世界文学 
・「私の人生の主人は誰なのか──カズオ・イシグロの作品世界」 (柴田元幸)
・「日本人の名残り」 (Irmela Hijiya-Kirschnereit)
・「「世界作家」としてのカズオ・イシグロ」 (David Damrosch:訳・福間恵)

「キリスト新聞」から

 KiriShin(The Kirisuto Shmbun, キリスト新聞、第3465、Feb. 11. 2018) が届きました。通常ならば、もう少し早く、ブログに内容を掲載できるところですが、連休が入ったため、キリスト新聞を受け取ったのが13日になり(土日・休日は事務室が閉まりますので、郵便物は受け取れません。大学宛てに郵便物を送る方はご注意下さい)、本ブログへの掲載も数日ずれこんでしましました。「新聞」紹介としては、やや遅くなりましたが、簡単に内容を掲載します。

<第01面>
・「バチカン奇跡調査官」「アニメ化で話題 信徒も注目 神父主役のミステリー」
 「原作者 藤木稟さんインタビュー」

 第一面はその号の中心テーマあるいは中心的なニュースの提示と関連の写真によって構成されます。
 
<第02面>
「〝敬虔な気持ち忘れず盲目的にもならず〟」「作人の根底には自身の宗教観も」

 最近のアニメやその原作となる小説では、いわゆる「専門職もの」とでも言うべき流れがあるように感じるが、これも、その一つだろうか。描く方の描きやすさと同時に、読み手の関心も反映しているのかもしれない。

<第03面>
「News/ニュース」「Topics/トピックス」:
・海外:「バチカン、中国と国交回復へ 解けぬ懸念なお」
・海外:「不信渦巻く米トランプ政権1年 それでも福音派は大統領のために祈る」
・海外:「小銭なくてもカードで献金 パリのカトリック教会」
・社会:「被爆者と共に獲ったノーベル平和賞 恵泉女子大と多摩市が報告会」
・声明:「核兵器廃絶の実現のために カトリック正平強が要望書」
・文化:「『教会に聞く』改訂新版発行 聖公会の竹内謙太郎司祭が講演」
・文化:「『ブランカとギター弾き』 2017年度カトリック映画賞に」
・募集:「チャイルド・ファンド・ジャパン」

<第04面>
・「宗教リテラシー向上委員会」:「宗教の家に生まれた子の話」 ナセル永野 (日本人ムスリム)
 「『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』(講談社)」「話題になったのは、外国人ムスリムの父と日本人の母を持つ男性スオミアッキさんが幼年期から抱えていた宗教・家族・学校の問題を綴った」「ツイート」
 「コーランに「宗教には強制があってはならない」(2:256)」と記載されている」
 「宗教や教育は、各家庭の私的空間における出来事で他者の介入を拒む領域である。」「行き過ぎると虐待や暴力と紙一重であり、無自覚な当事者は「愛情」と錯覚してしまうことだ。」
 「教育が虐待になる境目、愛情と暴力の境目、それはどこかのか。」「いつもどこでボタンをかけ違うのか?」
 「確実な測り方」「それは愛する家族を見て「幸せそうに笑っているか」だけである。」

 これは、多くの宗教が共有する問題である。愛が知性と結び付く必要があるというのは、こうしたところから生まれた知恵である。

・「縦断列島 書店員日記」: 「注文品に小さな「想い」乗せて」 上田玲子(大阪キリスト教書店)、次回は沖縄キリスト教書店

<第05面>
・「置かれた場所は途上国」:
 フィリピン 下 「幸福度世界痔2位の国」:平本 実

・「東アジアのリアル/East Asian Perspectives」:
  「韓国基督教会協議会に新総務就任」 松山健作

<第06面>
・「伝道宣隊 キョウカイジャー+αアルファ」
 「つながり方はいろいろ」 キョウカイホワイト

 「クリスチャンとして生きることは、思った以上にサッカーチームを応援することに似ています。」

<第07面>
・「Information/インフォメーション」
 いつものインフォメーションに加えて、「2・11関連集会」がまとめて紹介


<第08面>
・SONO: 「教派擬人化マンガ ピューリたん」57
  「ピューリたんに電撃走る」「うちの学校は・・・」

・「BookReview/書評」

・「TV/Radio」[テレビ/ラジオ]

『福音と世界』より(3月号後半)

 昨日の『福音と世界』 2018.3の前半紹介に続いて、本日は、後半を紹介します(最近はこのスタイルです)。冬の寒さも底を抜けた感じで、寒さの戻りを繰り返しつつも、少しずつ季節が進みつつあるように思われます。

 では、後半は、いつも通りに、二つの連載について紹介します。まず、わたくしが担当のものから。
 わたくしの連載 「現代神学の冒険──新しい海図を求めて」 は、今回が18回目ですが、三回続く「解放の神学」系を補足するインターリュードの締めくくりです。次回からは、次の「科学技術の神学」系となります(すでに原稿を完成して出版社に送付済み)。2回前のテーマである「宗教的多元性・宗教の神学」が、「戦争(と平和)」と「寛容」に分岐するというのが、三回連続インターリュードの構想ですが、「寛容」はもっとも扱いにくいテーマでした。今回はタイトルを「宗教的寛容と不寛容なリスク世界」としましたが、現代の宗教思想において、「寛容」はかなり広範な問題領域で問われており、なかなかその焦点を絞るのがむずかしく、また寛容をめぐる研究書は次々と刊行され、その新しい動向を見定めるのは容易ではありません。いずれ、手元にある最近の諸文献を精密に分析する作業を行いたいと考えていますが、なかなかそこまで手が回りません。その意味でやや中途半端な内容になりました。しかし、やや新しい話題として寛容のネットワーク(機会があれば、聖域、アジュールの議論をこれと結びつけて考察を行って見たいと考えています)やウルリッヒ・ベックを意識した構成にはなっています。
 
締めくくりは、次の連載です。
・内田樹 「レヴィナスの時間論」:「『時間と他者』を読む36」
 今回は、全体として、これまでの議論を念頭におけば、わかりやすい内容に思われますが、どうでしょうか。

 「具体的な日常の生活において、私たちはおのれの生理的欲求を満たさなければならない。」「私たちの生理的欲求を満たすものと、それを摂取しようとする私たちの間にはある種の隔たり」「その隔たりを乗り越え、対象をつかみ取り、それを摂取すること、それが労働である。私たちが実存するためには、労働の苦役と苦痛を避けることはできない。」
 「身体的苦痛」「私と苦痛は切り離すことができない仕方で結ばれている。苦痛において。私は苦痛そのものである。」「おのれ自身に釘付けにされているという事実」「自分自身から逃れることができないという根源的な不可能性」

 レヴィナスは、ハイデガーの図式(「無を前にした現存在の存在論的な不安」)を完全に顚倒して、「「存在の仮借なさ」「無の不可能性」をおのれの哲学の基点に定める。」
 「本書の記述がわかりにくいのは、レヴィナスが『存在と時間』への絶えざる参照を読者に要求してくるからなのである。」
 「ハイデガーの中心概念である「死(Tod)」」。
 「苦痛の絶頂は苦痛の彼方に予示されている。それがレヴィナスにとっての「死」である。それは予感であり、予兆であり、切迫ではあるけれど、私たちはそれが「何」であるかを名指すことができない。」「この「未知なるもの」」
 「光のうちで私たちは対象を把持し、理解する」、「世界を構成する事象のすべては、それが光のうちで把持され理解される限り、私たちの所有物である。」
 「しかし、「死の未知性」において私たちははじめて、「主体から由来するのではないもの」「神秘」との関わりを経験する。」「受動性の経験」「これが「受動性」という名詞の本書における初出」
 「レヴィナスのこのような「死」の概念はハイデガーの「死」の概念とは「まったく別物」である。」

 なるほど、死への先駆的覚悟というところで本来性・主体性・固有性を考えるハイデガーと、受動性のレヴィナス。両者の対比がレヴィナス理解の鍵であることは了解できる。しかし、この違いはどこから由来するのか。

『福音と世界』より(3月号前半)

『福音と世界』 2018. 3(新教出版社)が届きました。 先週は大学院入試が行われ、昨日は合格者の発表がありました。これで、入学試験関係は一つの山を越え、残りは、大学入試(一般入試・2次試験)となります。一方で、この時期に行うべき研究の方は、予定通りに進めることができ、まだ先がありますが、なんとかなりそうな感じがしてきました。
 以下、3月号の前半です。

 今回3月号の特集テーマは「キリスト教と犠牲のシステム」です。今回の特集は、キリスト教を含め宗教に密接な関わりのある「犠牲」という問題を、現代の問題状況(日本における愛国思想の高揚とその延長線上に浮かび上がる恐れのある国家・民族に対する犠牲、殉国の論理)において問い直すものとなっている。また、ルネ・ジェラールや高橋哲哉の「犠牲」をめぐる議論も、特集に収録された諸論考では教諭されている印象を受ける。とこあれ、「犠牲」でそもそも現代におけるいかなる事態を問うのかが問題であり、キリスト教的に言えば、現代のキリスト教において何が克服されるべき具体的な「犠牲のシステム」なのかが明確にされるべきであろう。

 収録された論考は以下の通り。

・「犠牲の論理とイエスの倫理」 (小原克博)
・「周縁者への暴力に荷担しないために──イエスの死のメタファとその解釈」 (浅野淳博)
・「十字架と模倣的欲望の終焉──ルネ・ジェラールによる十字架の意味」 (松平功)
・「長崎原爆と殉教」 (小西哲郎)
・「犠牲の再生産に抗するために──高橋哲哉さんと語る」 (座談会参加者:大川大地、福山裕紀子、工藤万里江)

特集と連載の間に、次の書評が掲載。
・書評「わたしたちの応答をうながす静かだが力強い絵本『いのちの水』(岡田圭)

続いて、連載。
・ブレイディみかこ:地のいと低きところにホサナ3 「命のパン」問題を考える。
「命のパンとは、人を生かすための文字通りの食べるパンが発祥なのだということを忘れると、宗教も思想も政治も、地べたから乖離してひらひらと中空に舞うばかりだ。」

「福音の地下水脈」第5回 FUNI(前編) 「自分の感覚だけが信じられなくなる場所が原風景」

 川崎、在日、ヒップホップ、教会

・高井ヘラー由紀 「はじめての台湾キリスト教史(12)」:「台湾の「本土化」と原住民のキリスト教」
 今回で、この特集は最終回とのことです。ご苦労様でした。
 「一七世紀以来、歴代の外来統治権力のみならず漢族移民からもい政治的・経済的・文化的抑圧を受け続けるという「二重の植民」下にあった原住民は、一九八〇年代まで「声なき声」であることを余儀なくされていたのだ。」
 「現在一六部族と認定されている台湾原住民は、一九四五から三〇年ほどで九〇パーセントがキリスト教徒(含カトリック教徒)となり、宗教離れが進んだ現在でも七〇パーセント以上がキリスト教徒である。」
 「急速なキリスト教化が少なからず原住民古来の文化を消失させた側面があったことは事実であろう。」
 「戦後台湾における原住民に民族的存続にとってはるかに大きな脅威だったのは、国民党政権による中国同化政策である。」
 「民族的尊厳が失われ存続の危機に瀕していた一九六〇年代から一転、一九七〇年代には原住民が自己の文化的アイデンティティの回復の必要性に目覚めていく。」「後の「原住民神学」の形成につながっていったのである。」
 「一九八〇年以降の台湾では、民主化は「本土化」」「という言葉で置き換えられるようになり、文学活動において「郷土文学」や「本土文学」が展開されたように、長老教会内では「郷土神学」や「本土神学」が展開されてきた。しかし「本土化」という概念は漢族本省人中心の政治イデオロギーに陥りやすく、ともすれば原住民の声は漢族主導の言説に取り込まれてしまう。」
 「国民国家という政治的枠組みでは説明しきれない台湾の存在を、より有機的に世界のダイナミズムにつなげていく作業」

 国民国家という近代の枠組みは、民族自決を後押しすると共に、国家に包摂される多様なエスニシティの同化・同一化という暴力となって作用する。そして、この枠組みがグローバル化の中で揺らいでいる。人類はいかんる共同性を目指すべきなのか、その中でキリスト教はいかなる役割を担いうるのか。台湾の現実も、こうした諸動向のせめぎ合いの中に存在する。
プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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