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雑誌紹介59

関西哲学会から、学会誌が届きました。

関西哲学会
『アルケー』(関西哲学会年報)No.28
2020年。

<共同討論/「デモクラシー」を論じる:プラトン『国家』の解釈をめぐって>
・趣旨説明 (松田毅)
・「哲人王とデーモクラティアー
  ──プラトン『国家』『プラトン『国家』:逆説のユートピア』の余白に」
 (内田勝利)
・「シュトラウスのプラトン『国家』解釈
  ──内山氏の読解との比較を交えながら」
 (坂井礼文)

<ワークショップ報告>
・「いま日本で哲学するということ」
 (井上克人)
・「いま日本で哲学するということ
  ──試みとしての〈冥顕の哲学〉」
 (末木文美士)
・「表現的媒介の論理
  ──日本で哲学するということ」
 (岡田勝明)
・「日本哲学の水脈」
 (安部浩)

<論文>
7編(タイトル省略)

 関西哲学会の学術大会には、この数十年、出席できていないが(時期がほかと重なることが多く・・・)、学会誌はなんとか、拝見したいます。
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訃報

 林忠良先生のご逝去の知らせが、昨日、届きました。82歳、関西学院大学を退職されてから、蓼科で生活され、学会などに関連した会議などで、お目にかかる機会は少なくありませんでしたが、最近は体調がすぐれず、入院されていたとお聞きしていました。
 
 林先生は、キリスト教学研究室の先輩で、京大に非常勤でご専門のキルケゴールに関する授業を担当された際にも、聴講するなど、研究面においてさまざまな点でお世話になったのはもちろんですが、なんと言っても、京都大学基督教学会に関しては、故高野先生とともに、中心にいて、ほんとうに頼りになる信頼できる先輩でした。特に、学会誌の編集委員長を長年担当させ、その際にお世話になった後輩は少なくないと思います。わたくしも、論文を書くということについて、多くを教えられました(校正原稿に多くの赤を入れられました)。
 このような存在であった先輩のご逝去のニュースを受け取ったときには、大きな衝撃でした。もちろん、最近のご様子から考えれば、まったくの突然の訃報ではないわけですが。

 ともかくも、先生の語られたことを思い起こしつつ、次の世代に、京都大学基督教学会などに関わることなどを引き継いでゆきたいと思います。
 感謝をこめて、ご冥福をお祈りいたします。

(研究室関係でお世話になった方々の訃報に接することは、この数年の間にも、いくつかありましたが、そのたびに「死」のこと、そして生きるということを考えさせられます。)

『図書』から

『図書』2020.7(岩波書店)が届きました。

 今月号は、宗教学・キリスト教学との関連で、とくに紹介すべきものはないように思われるが(亀淵迪「英雄の生涯」は、氏が専門とする理論物理学の二つの英雄として、ハイゼンベルクと湯川秀樹を取り上げ、彼らを襲った異常な出来事を取り上げている。個人的には、面白く読ませていただいた)、それ以外は、特には・・・といった感じである。

 今回、紹介したいのは、巻頭言にあたるヤマザキマリの短文である。

・ヤマザキマリ「今だからこそ読む、安部公房」
 「安部公房は人間の生きるありさま、そして人間の作り出した社会という現象を、まるで昆虫の生態記録を綴っているかのように俯瞰で表遠し続けた作家」という紹介から始まり、「けものたちは故郷をめざす」を取り上げている。

  安部公房の一読者としては(といっても、学生時代に集中的に読んだくらいであるが)、目にとまる文章である。何かの機会に、安部公房を宗教学的な視点で扱いたいと考えてきたが、今回のコロナウィルスをめぐる動きを見る中で、安部公房なら、これをどう描くだろうかなどという想いがよぎらないわけではない。
 

雑誌紹介58

キリスト教学研究室に、雑誌が寄贈されました。本ブログでは、最近ユングを取りあげてきましたが、ユングに関連した論文が収録されており、ボンヘッファーについての議論も目に付きます。全体として、聖書学が充実しているという印象です。

関西学院大学神学研究会
『神学研究』第67号、
2020. 3。

論文
Verlorenes Subjektsein: Die Frage nach dem Menschen in Röm 1. 18-32
 (David Wider)
Liminal Evaluation of the Colossian Household Code: An Étude of Social Identity Approach to Col 3:22-4:1
 (Atsuhiro Asano)
ローマ書4章へと導くパウロの神学的関心をめぐって──アブラハムのテーマ
 (武久盾)
回心研究と神学の関係性に関する一考察──F・シュライエルマッハーからC・G・ユングまで
 (髙木政臣)

人権研究
キリスト教と人権:神学的人権論の類型とD・ボンヘッファーの理解をめぐる一考察
 (橋本祐樹)

講演
探偵としての人間:遠藤周作を読む
 (金承哲)

『福音と世界』から

『福音と世界』 2020. 7(新教出版社)が届きました。
 6月下旬になり、あいかわらず外国人の観光客などはほとんど見かけませんが、京都市内にもかなり人が戻ってきているようです。大学も、5月の頃に比べれば、学生の姿もそれなりに見かけるようになりました。このまま、徐々に大学らしい状態に戻るのでしょうか。7月には、授業形態が若干緩和されるという見通しも出てはいますが、成績評価を含め、普通の講義や演習は、対面に戻ることなく、前期は終了しそうです。こうなると、大学の意味や機能も見直しが求められるということになるかもしれません。カリキュラムや授業形態が大きく変動すれば、大学の場所や設備も大きく変更されるでしょう。教員の在り方も当然、違ったものになるはずです。近未来の大学は、どんな仕方でシメージし、構想されるっことになるか、かなり不安です。

 さて、5月号の特集テーマは「コミュニズムの現在性(アクチュアリティ)」です。キリスト教もそうですが、コミュニズムも欧米において大きな理論的な展開と実践的な進展が模索されており、19世紀的(20世紀的)な古典的イメージでその動向を把握することはできません。その波は日本にも及んであり、目をこらしてみれば(見る目と聞く耳があれば)さまざまなものが見えるはずです。この点で、今回の特集には興味津々です。一体、何が視野に入りつつあるのか、あるいは隠れているのか。

 収録された論考は以下の通り。

・「フランス現代思想における信と共」
 (市川崇)
・「資本のコミュニズムあるいは認知資本主義の両義性?」
 (山本泰三)
・「ウイルス・プラネットとエコロジーの政治学──人新世・コミュニズム・芸術」
 (清水知子)
・「フェニズム/再生産/コモンズ──シルヴィz・フェデリーチの議論によせて」
 (小田原琳)
・「抵抗なき逃走は連帯をなすか──欲望と政治の在処について」
 (小林卓也)
・「時よ、(しょつちゅう)とまれ」
 (入江公康)

では、連載へ。

・好井裕明「くまのシネマめぐり」:「アタゴオルファンタジーへの招待」
 『アタゴオルは猫の森』『グスコーブドリの伝記』
 
・土井健司「教父学入門」11:「『パウロとテクラ行伝』──女性がキリスト者になる意味」
 今回は、イエスの顔立ちから話がはじまり、パウロの容姿へ、そしてテルトゥリアヌスの『洗礼論』におけるテクラの例への言及に展開し、『パウロとテクラ行伝』への導入がなされる。続いて、問題のテクラ(『パウロとテクラ行伝』では、主役はテクラ)についてのやや詳細な説明がなされる。
 著者は、テクラを手がかりに、「女性がキリスト者になる意味」について、古代キリスト教の事例(マクリナの別名がテクラであったことなどを含めて)から、次のような指摘を行っている。
「「キリスト者」というものがまだまだ社会的スティグマであった時代に、むしろだからこそ女性たちに新しい生の可能性、未来を与えたのではないだろうか。」「テクラ行伝は女性たちを勇気づけ、新しい生に導いた物語であったのだろう。」

 「キリスト者」というものがまだまだ社会的スティグマであった時代」は、日本では決して記憶の彼方の時代ではなく、明治から昭和前半(近代のかなりの部分)は、まさにそんな時代であったことが思い起こされる。欧米そしてアフリカでも、フェミニスト神学は大きな発言力を獲得してきているが、日本では、状況が大きく異なっている。フェニズムと神学を研究し前進させようとする研究者の層はあまりにも薄い。テクラ行伝を読み解く意義は、古代のキリスト教を学ぶ意義は、こうした現代日本においてこそ強調されるべきではないかと思わされる。

「バビロンの路上で」16.「Gotta Serve Somebody」
 (マニュエル・ヤン)

「遺跡が語る聖書の世界」19.葬送と墓制Ⅰ
 (長谷川修一)

 葬送と墓制は考古学のメインテーマであり、宗教、社会を論じる基盤である。古代イスラエルにおいては、どうだったのだろう。キリスト教は何者だったのだろうか。
 
最後は、次の連載です。
・内田樹「レヴィナスの時間論──『時間と他者』を読む」63
 今回は、レヴィナスがいかなる思想家であるかについての論者の見解が語られています。

 レヴィナスはローゼンツヴァイクから「単独性」という概念を継承した。これは、すでに詳細に論じられたことである。
「私の唯一無二性はいかなる文脈にも依存しない、いかなる体系にも属さない、いかなる構造にも規定されない。このような考想は一九世紀後半から現在に至るまで、少なくともヨーロッパの思想界では一度も定説になったことがない。」
ヘーゲルであれ、マルクスであれ、フロイトであれ、ニーチェであれ、「人間は人間を超えたある匿名的なシステムのうちに嵌入している。」
サルトル、レヴィ=ストロース、フーコー・・・。
「レヴィナスは一九世紀から二〇〇年続いているこの哲学的スキームそのものを退けている。だから、わかりにくくて当然なのである。」
「理解できたかは別として、何人かの聴衆の身体に浸み込み、心を震わせた。それはこの未聞の思想にも、ある種の身体的なリアリティがあったからである。」
「一意的に定義はできないけれど、レヴィナスの文章を読んでいると、それらの語の「使い方」はわかる。」「未聞の概念が受肉するまでにはそれなりの時間がかかる。」「「わからない」が、「自分のものになる」ということはある。」

 ここまでを踏まて、いよいよ「レヴィナスの最もわかりにくい考想と向き合う」ことになる。他者の他者性、神秘、死、超越者。
プロフィール

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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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