浜田與助(5)

 浜田先生のご遺族から寄贈された資料の中には、これまで紹介してきた浜田先生の著書や抜き刷り、そして書簡のほかに、「遺稿」としるされた原稿が存在している。タイトルは、「カント実践哲学の問題」と題され、20字10行の同志社大学研究所原稿用紙を使って170枚におよぶ論文である。これについても、前回の抜き刷りの場合と同様に、調査を行うことによって、執筆年代などをある程度絞り込むことは可能かもしれない。

 この原稿に挟み込まれた、メモによれば、この論文は次のような構成において構想されたものであることがわかる。


 一 カントに於ける、死せるものと、活けるもの。
 二 諸個別科学と哲学の無仮定性

本論
 一 カント哲学の中心性と完結性
 二 哲学の実践的性格の必然性の問題とカント哲学。(2,3)
 三 実践哲学の問題とカントの実験的方法(4,5)
 四 実践哲学の問題と全き批判(6,7)
 五 実践哲学の必然性と超越的弁証論(9,10)

 これらの章のタイトルは、論文原稿の中に鉛筆書きで書き加えられており、鉛筆書きでの推敲のあとを確認することができる。

 この論考を今後何らかの形で、公にする機会があるかは不明であるものの、近代から現代にかけての多くの思想家について、遺稿の扱いが、研究上しばしば問題になることを考えれば、この遺稿原稿についてもきちんとした扱いが必要にも思われる。
 わたくしの研究の範囲でも、多くの遺稿が残されあるいは発見され、研究が飛躍的に発展したニュートンの場合、あるいは活字化しなかった原稿、ノートなどが本人によって処分された波多野精一の場合、事情は様々なある。遺稿やノートが残されていない場合は、それらが処分されたことがきわめて残念に思われるし、また多くの遺稿が残されている場合には、その扱いに困ることにもなる。
 現在あるいは今後の思想家は、場合によってはハードディスクの中に膨大なデータが残される可能性もあり、こうした思想家の研究はどのような方法論を要求することになるのだろうか。

 自分の思想が後世の人々の研究対象になるとは思われないが、何をどのように残すのか、あるいはすべてを完全に消去するのかなど、やや悩ましい問題である。わたくし自身は、現時点では完全消去派であるが。
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浜田與助(4)

 浜田先生のご遺族より寄贈いただいた資料の中に、論文の抜き刷りを思われるものが含まれていた。最後に、「終りに本稿のために四回まで誌上を提供して下だすつた松村主筆を始め同志諸兄に厚く御礼申し上ぐる次第である。(六月三日)」と結ばれていることだけからでは、この論文が掲載された論文名やその時期などは確定できない(おそらくは、浜田先生が所属していた同志社大学文学部あるいは哲学研究室における紀要の退職記念号などを調べればこうした点は解明できると思われるが)。

論文のタイトル:「福音の生活化─福音の本来性への帰還─」、タイトルの後に次の言葉が引用されている。
  Beata quippe vita est gaudium de veritate. (Augustinus: Confessiones. X. 23.)

4回にわけて執筆されており、
全体は、一~五、六~七、八~九、十~十一という仕方で番号で区分されている。

 論文の主旨は、「生命の言」である福音(福音の本来性である生命)が生活の内にこそ存立すべきものであり、それが忘れられるという危険から福音を守り、回復することにある。
 論文が「福音」をテーマにしていることからわかるように、この論文では、聖書(新約)の言葉が、多く取り上げられ論じられる。しかし、それは聖書学的あるいは聖書神学的な議論と言うよりも、いわば宗教哲学的な議論の中に比較的自由に引用されている印象を受ける。基本的には、宗教哲学的な論文であり、フォイエルバッハ、カント、ベルグソン、シェーラー、ジンメル、ヘーゲル、キェルケゴール、クローチェ、ハイデッガー、バルト、スピノザ、アルトハウスなどに、縦横に言及しつつ、議論は進められる。

 この論文では、様々な点で波多野宗教哲学と重なるものであるにもかかわらず、波多野への言及は見られない。また、以上の議論の仕方は、一つの論文スタイルというべきものであり、しばしばほかの論者においても採用されるものである。ここに、哲学論文の世代的な特徴を見ることができるかもしれない。

浜田與助(3)

 浜田先生のご遺族から寄贈された書籍のうち、浜田先生の著書の3冊目です。

浜田與助
『宗教的現実』
啓文社、1959年(初版、1946年)。

自序
改版の言

第一章 永遠の探求
  一 永遠への思慕
  二 永遠の素朴的概念
  三 永遠の思弁的概念
  四 永遠の先験的概念
  五 永遠の体験的概念

第二章 永遠の論理
  一 理論と実践との根源(唯心論と唯物論との彼岸)
  二 学問の伝統と論理の展開
  三 実存の論理の前段階
  四 実存の論理の探求
  五 永遠の諸性格

第三章 永遠の今(宗教的現実)
  一 歴史と時間
  二 歴史的現実から宗教的現実へ(歴史と永遠の今)
   I 根源的人間存在と有限的時間
   II 根源的人間存在と歴史的現実
   III 歴史的現実と有限的時間性の構造
     (一)本来的未来としての到来
     (二)本来的過去としての曾有
      (三)本来的現在としての瞬間
     (四)歴史的現実から宗教的現実へ
  三 永遠の今の諸性格(宗教的現実の諸性格)
    I 歴史との邂逅
   II 歴史の中央と歴史的冒険
   III 歴史の中央の構造
  四 永遠の今の時間的構造(宗教的現実の時間的構造。神の永遠への正道。)
    I 「今」(神の永遠への正しき出発点)
   II 体験しうる時間
   III 時間の二律背反
   IV 同根源的時間
      (一)形而上学的時間概念
      (二)歴史的時間概念
      (三)実存的時間概念
    V 世界時間から啓示の時間へ
      (一)世界時間と人間存在
      (二)世界時間の変革と啓示
   VI 永遠の今と啓示の時(宗教的現実)
      K・バルトにおける「啓示の時」
      A 神の時と人の時
      B 第三の時
      C 啓示の時の性格と構造


 一 宗教的現実の構想
 二 哲学の発端と根源


 本書の初版は、『波多野宗教哲学』(1949年)の先立つ刊行であるが、その内容の類似性から見て、本書で、波多野精一への言及が見られないことは、いかんる理由によるのであろうか。本書冒頭の「自序」では、「本書は、わたくしが哲学の教師として、二十有余年にわたって求道生活を、恵のうちに続けることをゆるされた、その間におけるいわば一つの魂の貧しい生活記録であると同時に、一つの拙き学問的労作でもある、といいうるであろうか」(1)と述べており、1920年代前半より、哲学の教師として研究を続けてきたことがわかる。著者略歴では、年代なしに「京都帝国大学文学部哲学科専科終了、ドイツ・フライブルク大学留学、同志社大学文学部教授 文学博士」とのみ記載されているが(フライブルク留学ということから、本書で、フッサールとハイデッガーへの多くの言及がなされていることも理解できる、波多野が京都帝国大学に着任した1917年には、浜田(1890-1967)は27歳、つまりすでに京都帝国大学を終了しフライブルク大学留学中の頃であり、波多野との直接に面識はさらに後のことと推察される(その点、浜田より7歳年下である三木清は波多野と親密な関わりをもつことになる。)。浜田がいつごろから波多野宗教哲学に関心をもつようになったのかは、はっきりしたことはわからないものの、京都帝国大学着任後の波多野の論文・著書の少なさを考えれば、浜田が波多野に注目し始めたのは、三部作が形を表し始める1935年以降におけるのかもしれない。こうした点が、浜田の著作に意外にも波多野の名が見られない理由かもしれない。ともかくも、その後浜田は波多野と学問上の関わりを結ぶことになる。なお、波多野全集第六巻に所収の浜田宛への書簡は、最初のものが昭和19年(1943年)の日付である。また、浜田先生のご遺族から寄贈された波多野からの手紙には、昭和9年2月19日の消印のものが含まれている(これは、波多野の京都帝国大学在職の最後の時期、『宗教哲学』刊行、直前のものである。また別の書簡には、『宗教哲学』が絶版で、再版された際には、浜田先生に贈呈したいとの記述も見られる)。

 思索の方向性においてきわめて近い地点に立っていた二人の思想家であるが、その出会いが、主に波多野の晩年期であったことは、これも一つの運命であろうか。

浜田與助(2)

 今回、浜田先生のご遺族より寄贈された図書より、2冊目の紹介をいたします。

浜田與助
『人間の問題』
第一書房、1940年。

第一講 序説
  一 人間の問題の現代的意義
  二 人間の問題探究の地盤とその方法
  三 人間の位置

第二講 自然に於ける人間存在
  一 有史以前の人間像
  二 有史以前の人間の生活様式
  三 人間歴史の誕生
  四 人間存在の逆説的性格(創造性と被創造性)
  五 人間と風土(フォイエルバッハ人間学の現代的理解)

第三講 歴史・文化に於ける人間存在
  一 歴史・文化の中心と周辺
  二 人類の二発展形態
    a 生命綱(人間興亡の哀史) b 理想(偉人天才の悲劇性)
  三 文明と文化
  四 気候と文明
  五 人間身体の表現性「顔」と「手」
  六 文学に於ける人間像「成就せる生の秘密」

第四講 宗教に於ける人間存在
  一 宗教への通路
    a 外からの通路 b 内からの通路
  二 神話と宗教
  三 宗教の再把握と宗教の根源
    a 死せる宗教 b 生ける宗教 c 宗教の根源=神
  四 宗教体験の存在論的構造
    a 宗教の世界の根源性 b 宗教の世界の景観 c 宗教的「時」

第五講 現代と現代人の類型
  一 問題
  二 歴史の理解
    a 歴史の素朴的理解 b 歴史の哲学的把握 c 歴史の存在論的構造
  三 人間存在の二大原理と歴史(その核心と外殻)
  四 人間存在の運命
  五 現代の性格
    a 十九世紀の性格(危機胚胎時代) b 現代の性格としての機器の構造とその打開
  六 現代人の類型とその性格

補講 神話の現代的意義


 本書は、昭和15年の刊行、つまり、前回紹介の『波多野宗教哲学』(1949)より10年近く遡る、1940年の著書である。あとがきによれば、「六日会」(京都西陣某商店)の依頼で行われた5回連続の講演がもとになったものであり、人間存在についての存在論的人間学に基づく宗教哲学とでも言うべき内容になったいる。当然、マックス・ジェーラーへの言及があり、キルケゴール、ヤスパース、そしてハイデッガーが繰り返し取り上げられ、カッシーラーやシュヴァイツァーも論じられる。しかし、以外にも、あるいは奇異なことに、本書の内容や構成から当然期待される波多野精一への言及は存在しない。その意味では不思議な著書である。

浜田與助(1)

 先日の本ブログで、浜田與助に言及したが、改めて、浜田先生について紹介を行いたい。わたくしは浜田先生に直接お目にかかったことがないが、先生については、わたくしが学生時代にお世話になった平安教会の前牧師である小野一郎先生を通して、波多野宗教哲学の研究者ということ、またその人となりについても、何度かうかがったことがあり、間接的ながら比較的親近感を覚えていた研究者の一人であった。

 浜田先生と言えば、まず波多野宗教哲学の研究者、またその継承者として面に触れる必要がある。次に目次を掲載する『波多野宗教哲学』は、波多野宗教哲学研究の最初の体系的な研究文献(600頁を超える大きさ)であり、その水準は現在の波多野研究においても基本的には乗り越えられていない。きわめて詳細で緻密な研究である。今後本格的な波多野研究が試みされる場合には、この浜田先生の研究書の批判的な再検討が必要になる。


浜田與助
『波多野宗教哲学』
玉川大学出版部、1949年。

前がき
序に代えて
第一章 宗教の誤れる理解から正しき理解へ
  一、その時代的必然性
  二、その踏み越えし学問的段階
  三、神学の基礎としての正しき宗教哲学
  四、その性格と構造
第二章 正しき宗教哲学の体系的素描とその展望
  一、体系究明の順序
  二、宗教の研究と宗教的体験
  三、高次の実在主義
  四、課題としての人格主義的人間学
  五、人格主義の本質素描

第一篇 性格篇 
第一章 高次の実在主義即遡源的実証主義
  一、学問の性格規定
  二、高次の実在主義即遡源的実証主義
   I 高次の実在主義
   II 遡源的実証主義
第二章 人格主義即徹底的象徴主義
  一、その体系的必然性と歴史的必然性
  二、人格主義即徹底的象徴主義
   I 人間主義から人格主義へ(文化から宗教へ)
    A 言と人
    B 物と人
   II 人格主義即徹底的象徴主義
    A 言の三類型と人間の在り方
    B 象徴としての言と人格
  参考文献

第二篇 構造篇
第一章 構造解明の学問的必然性と構造の二根本構成契機
  一、性格と構造との内面的連関と学問性
  二、構造の二根本構成契機並びに構造の特異性と根源的記述
第二章 反省的自己理解に裏づけられた人間の根源的生体験の構造
  一、根源的文化的生体験
   I 歴史・文化の類型と根源的文化的生体験
   II  「もの」の分化と「文化」の誕生
   III 「もの」と「実在」
   IV 根源的文化的生体験の進展
    A 霊に憑かれた人から自我を賦与された人へ(原始人から文化人へ)
    B 文化の根幹「観想」
   V 根源的文化的生体験分化の上・下の二方向「認識」と「思索」
    A 認識とその構造
    B 思索(イデアリスムスと神秘主義)
     a イデオリスムス
     b 神秘主義
  二、人格的宗教的体験の構造(点描)
第三章 反省的自己理解に裏づけられた人間の根源的生体験と「時」の構造
  一、宗教及び哲学の理解「時」の問題
   I 宗教の理解における「時」の問題の重要性
   II 哲学における「時」の問題の重要性
  二、「時」の構造
   I 実在概念と「時」
   II 自然的時間性(根源的時間性)
    A その根源的本質的性格と構造の基盤
    B その根源的本質的性格と構造
     a 将来の根源性と「時」の不可逆性
     b 永遠の問題と根源的時間性
   III 文化的時間性
    A その本質的性格と構造との基盤
    B その本質的性格と基本的構造
     a 「過去」の観念性と自然的認識
     b 「現在」の本質的優位性と「時」の逆転
     c 文化的時間性の一般的性格並びに文化的生の情緒と帰趣
    C 永遠の問題と文化的時間性の限界
     a 客観的時間の無終極(「偽の永遠」)
     b イデアリスムスの哲学と神秘主義との無時間性(「偽の今」)
    D 文化的生の自己欺瞞の病根とその根治の問題(「文化から宗教へ」)
   IV 宗教的時間性の素描
   V 根源的空間性
   VI 死の問題
  参考文献

第三篇 本質篇
第一章 波多野宗教哲学本質論攷
  一、その学問としての本質
   I 学問性の問題
   II 学問究明の出発点
   III その学問性と特異性
   IV その学問性の本質的規定
    a ギリシャ古典哲学と波多野宗教哲学
    b 近世自然科学と波多野宗教哲学
第二章 人格主義の探究
  一、人格主義と波多野宗教哲学
  二、人格主義と擬人観並びに有神論
  三、波多野宗教哲学における人格の本質探究
   I 波多野宗教哲学の現代的意義
   II その人格の基盤の特異性
  四、道徳観としての道徳から実在としての道徳へ
   I 波多野宗教哲学に於ける人格の本質即実在性
II 人格の探究と文化の十字路
III 文化に於ける「もの」の媒介性
IV 文化の根源的悲劇性と人格探究の生の必然性
第三章 人格主義の宗教の本質と諸特徴
一、回顧と新しき出発点
  二、愛の立場
   I 愛と主体性の問題
   II エピチューミアとエロース
  三、愛の本質的構造と諸特徴
  四、神聖性・創造・恵み
   I 神聖性
   II 創造と恵み
  五、無・象徴(「言」)及び啓示
   I 無
    A 根本的「無」
    B 神秘主義的哲学的「無」
    C 秘義的宗教的「無」
   II 象徴と「言」
   III 啓示
第四章 時と永遠
  一、創造の恵みと永遠
  二、時と永遠
  三、有限性と永遠
第五章 体系的構想と将来の課題
  一、体系の基盤とその認識の特異性
  二、体系及びその構造と組織
   I 宗教の哲学的類型
   II 人間学と将来の課題
  参考文献
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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