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アガンベン・メモ(b46)

3・18
 ここでは、テーマとなっている「存在と様態の関係の正しい把握」という課題の意味が再確認されている。

「存在と様態の関係の正しい把握はアリストテレスの装置のアポリア、なかでも存在と言語活動の基本的な関係のアポリアを解消すること」

「ティ・エーン・エイナイ」「或るものの自己自身との同一性の関係」「エマとそれがエマであることとの関係」
「存在論的関係は存在者とそれが名指しされること、エマとそれがエマで言われること、エマとその《言表可能性》との間」「ストア」

「この関係はスコトゥスの形相的区別においても問題になっている」、「〈言表されるもの〉は」「存在者が言表されるかぎりで受けとるかぎりで受けとる質ないし性格である。」「名前はこでは事物のひとつの存在論的属性であって、外在的な目印ではない。」
「スコトゥスは、関係は関係するとは独立のそれ自体で存在するというアウグスティヌスのテーゼを新しい方向に発展させて、関係の存在をひとつの形相と定義しその形相の身分を"ens debilissimum"[このうえなく脆弱な存在者]と規定している。関係はなにか現実に存在するものであるが、すべての存在者のなかで最も脆弱な存在者である。」
「"ens debilissimum"とは〈言表されるもの〉のことであり、名前である。」
「スコトゥスがアウグスティヌスを踏襲して繰り返している誤りは、本質それ自体をなにか関係的と言われる存在の先に置かれるべきもの、そしてそのようなものとして関係的なものからは独立に考察され教授されうるものとしてとらえられてりるということである。」

「もしそうであっとしたら、キリストを愛することなしに神を愛することが可能である。」「エマと飛ばれる個別性(エマの現実存在)を愛することなしにエマの自己自身との同一性(エマの本質)を愛することが可能である、ということになってしまうだろう。そしてこの誤りはこのようにただちに論駁されることとなる。」

「様態的存在論のコンテクスト」では、「本質は関係的なものなしには存在しえず、存在は存在者なしには存在しえない。」
「エマは人間の本質が個体化されたものではなく、あくまでひとつの様態であるかぎりで、それが現実に存在するなかで名前をもつこと、言語活動のなかに存在することを必要としている存在者なのだ。」

 本質の個体化という議論の組み立てが問題あるとして、これは、存在の秩序という組み立てがそれを規定している。認識の秩序では、名前を持つ個体が先行する。この認識を存在論へと逆転させる思考が問われている。
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アガンベン・メモ(b45)

3・17
議論は、引き続きスピノザですが、かなり以前に議論されたテーマとスピノザが結び付けられることになります。議論の相互連関の一端が見えてきたように思います。

「スピノザのうちには、伝統的存在論のかかわるもろもろの矛盾を超えたところで実体と様態の関係を把握するための鍵を提供してくれるひとつの外延が存在する。」
「内在的原因という概念がそれである。」
「《・・・ゆえに神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない》」

「スピノザの『ヘブライ語文法要綱』」「不定名詞」「のうちの動作主とその受け手の双方にかかわる行動を表現した特殊な形態」「このヘブライ語の動詞の形態は、わたしたちが「使用」という語の意義にかんして想起してきたギリシア語やラテン語の動詞の中動態に正確に対応している。」

「内在的原因は動作主とその受け手とがそこにおいて合致する行動、つまりはいっしょうにそこに落ちこむ行動である。」
「実体と様態の関係を思考するためには、動作主(神または実体)がもろもろの様態を現実化するなかで実際には自分自身だけを触発し形状を変化させるような中動態における存在論を配備している必要があることをも意味している。」
「様態的存在論は中動態的存在論としてのみ把握される。」「神が自分自身を触発し、形状を変化させ、表出するところのひとつの過程なのである。」

「様態的存在論においては、存在は様態を使用する。すなわち、それがもろもろの形状変化そのものから受けとる触発作用のなかで、自分自身を構成し、表出し、愛するのである。」

注:「表出は原因の概念を変容させ中和化する原理として機能しており、原因と結果のあらゆる位階秩序を撤廃し、表出されるものが表出するもののなかに内在しており、受動的なものが能動的なもののなかに内在していることを主張している。」

アガンベンの発想はかなりはっきりしてきたように思われる。しかし、キリスト教思想としては、さらに先まで思索を伸ばす必要がある。なぞは、創造、贖い、完成か。

アガンベン・メモ(b44)

3・16
 ここでは、エーン=ソーフとセフィロートとの関係について、ハイデガーをはさんで、考察を進めている。最後に重要な確認がなされる。

「ここで問われているのは、存在と存在者の存在論的差異という形而上学的問題にほかならない。」「エーン=ソーフとセフィロート、一者とヒュポスタシスの関係のなかで、ハイデガーによると西洋の形而上学を定義しているという存在論的差異が危険にさらされている。」

「ハイデガーにおいてはテクストの目立たない細部で証言されている」「決断することがいかに必須であり困難であるか」
「一九四三年に『形而上学とは何か』第四版に付加された「後記」の一節における一語の修正」
「「後記」の最初のヴァージョン」「第四版」「存在は存在者がいなくてともたしかに(wohl)存在するが・・・」「存在は無として立ち現れている」
「一九四九年」「第五版」「「後記」の第二版」「存在は存在者がなくてはけっして存在せず・・・」「存在はもろもろの存在者からけっして分離できず」「何らかの仕方で」「同一化される」
「動機が明らかにされないままになってしまった修正は、動揺と確信のなさを示唆しているようにみえる。」

「問題が解決されるのは」「それが様態的存在論のかたちで提起される場合である」、「様態は存在と同一でもあれば相違もしている」
「Deus sive natura」「スピノザの連辞」は「「神即自然」を意味するものではないのだ。」
「siveは・・・様態化を表現しているのである。すなわち、同一性も差異もともに中和化され消滅するといった事態を表現しているのである。」
「神的であるのは存在そのものではなく、その"sive"
それがつねにもろもろの様態へと形状を変化させており「自然化されている」──生成している──ということなのだ。」
「様態はその組成からして副詞的な性質を有しており、存在とは「なんであるか」ではなく、「どのようであるか」を表現しているのである。」

 ここで、ユンゲルがバルト研究で、三位一体論から、「神の存在は生成においてある」(Gottes Sein ist im Werden)という命題を提示したことを思い起こすのは、わたくしだけだろうか。また、ハイデガーの『形而上学とは何か』からハイデガーの形而上学への議論の変遷を読み取る作業として、上田先生の演習を思い出した。

アガンベン・メモ(b43)

3・15
ここでは、スピノザの議論に入る上で参照される、カバラの議論が紹介される。アガンベンは、ショーレムを参照している。

「存在と様態の差異の存在論的意義の問題は、カバラーにおけるエーン=ソーフ(En-sof)とセフィロート(sefiroth)の関係のうちにことのほか明瞭に現われている。」
「ショーレム」「プロティノスの一者とカバラー主義者たちのエーン=ソーフ」「との関連と相違」
「エーン=ソーフ」「もろもろの限定や属性を絶対的に欠いている」「文字どおりには「果てしなく」の意」。「この「無限に果てしなく」から」「特性と属性を有するセフィロートへの移行において、なにが起きるのだろうか。」「問題はエーン=ソーフと第一のセフィロート(これは或る者たちによると思惟であり、別の者たちによると意志であるという)の関係についてとりわけ愁眉のものとなる。」
「エーン=ソーフと第一セフィロート(あるいは一般的に十個からなるセフィロートの総体)が本質的に相違したものであるとしたら」「深淵が口を開けていることになる」、「また同一であるとしたなら、汎神論へ転落する危険が待ち受けていることになる。」

「無からの創造のユダヤ教的(ならびにキリスト教的)とらえ方における無の戦略的意義」「エーン=ソーフとセフィロートのあいだには無」「が存在する。」
「問題はエーン=ソーフと無とのあいだの」「関係の問題として再生産されることとなる。」「絶対的な同一性となって難破してしまうか」「絶対的な差異となって断ち切られてしまうのかの瀬戸際」
ここで、注(ヘレーラの『天国の門』における、エーン=ソーフを第一原因と解する議論の矛盾・困難について)が挟まれた上で、次のように結ばれる。
「問題が伝統的存在論のカテゴリーの内部では解決されえず、ひいては別の概念体系への移行を要請していることは明らかである。」 

アガンベン・メモ(b42)

3・14
 今回もこれからの議論への導入的な内容です。それはスピノザを論じる上でのカバラのと関わりという点で、次回から数回にわたって、カバラがテーマ化されるという議論の展開です。

「実体と様態、ナートゥーラ・ナートゥーランス(natura naturans[能産的自然])とナートゥーラ・ナートゥーラータ(natura naturata[所産的自然])の関係を説明するためのひとつのありうるパラダイムは、流出論パラダイムである。」
「スピノザのモデルと新プラトン主義がユダヤ教の哲学者やカバラー学者に伝えてきたモデル」

「しかしながら、アナロジーはまったくの筋違いである。もろもろの事物が神から出てくるという流出論のパラダイムにおいては、事物は実際に神から出ていって、神から分離する。ところが、スピノザにおいては、もろもろの様態が神のうちにあり、神のうちにとどまりつづける。」
ここで、アガンベンは、Wolfson(Harry Austryn Wolfson)のThe philosophy of Spinoza (1958)を参照している。アガンベンは一次テキストに基づいて議論を進めているが、随所で、二次的文献(専門研究)を批判的に参照している。それによって議論がしっかりしたものとなっている。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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