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アガンベン・メモ(b27)

2・7
 ヒュポスタシスが現実化を意味することと、ギリシャ教父とラテン教父との対比について。

「ダリエは、アタナシオスにおいては「ヒュポスタシス」という語はたんに《現実》を意味するのではなく、むしろ《現実化(Realisierung)》を意味している、と指摘している。」「《それは状態ではなく行為を表現している》」

「ボエティウスの定義以降、ペルソナの概念は《理性的自然の個別的現存(naturae rationalis individua substantia)》として定義された。」「三位一体論におけるペルソナないしヒュポスタシスの問題は個別化という哲学的問題と結婚することとなった。」
「神の自然本性も被造物の自然本性も個別的現存」「に転化し、個別化ないし《ペルソナ(人格)化》されることとなるのである。」「近代的主体の「パーソナルな」性格、近代の存在論」
「キリスト教の存在論──ひいてはそこから派生した近代の存在論──がヒュポスタシス的存在論であるとうことは、それが卓越して実際的で活動的なものであることを意味している。」「現実ではなく現実化なのだ。」

「アリストテレスの装置では個々の現実存在は先に置かれた所与であったのにたいして、ヒュポスタシス的存在論ではそれはいまやなにか達成ないし実現されるべきものである。」「《梯子(klimax)》の形で体系化」
「東方の教父たち」「樹のなかに下から入りこんでいる、すなわち、現実に存在する具体的な個物から出発して、つぎにもろもろの種と類に向かって上っていき、最後に実体に到達しようとしている」
「ラテン教父たち」「樹のなかに上から入って、つぎに類的なものから個別的なものへと、実体から類へ、さらに種へと下降していって、最後に個別的な現実存在に触れようとしている」、「普遍的なものから出発して、つぎに本質に付加される形式的根拠ないし原理を探索し、それの個別化を規定しようとする」
「現実存在の問題にたいする二つの相異なる知的態度」、「本質と現実存在の関係は──すくなくとも神学的モデルにおいては──つねに両方の運動を含みもっている、あるいは含みもっていてしかるべきである」

「存在論はいまでは本質と現実存在のあいだに張り渡された力の場となったということ」
「それ自体としては理論的には不可分なはずの二つの概念が、両者の関係がしだいに不分明になっていくのについれて離反してはまた接近しあう傾向を示しはじめているのである。」
「個体化の問題──すなわち個別的現実存在の問題──は、そこにおいてこれらの緊張が最大限の乖離に到達する場なのだ。」

 ギリシャとラテンとの二つの思考形態の問題は、興味深い。キリスト教を思想的に理解する上でもきわめて重要。また、個体化の意義もこれでよくわからようになる。
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アガンベン・メモ(b26)

2・6
 ピュポスタシスの議論は、新プラトン主義からキリスト教神学・正統異端論争へ到達する。この第二章はいよいよ大詰めであり、あとはキリスト教神学における展開が問題になる。正統異端に加え、ラテン世界とギリシア世界。

「新プラトン主義的なヒュポスタシスの学説は三位一体神学において最終的な発展段階に到達する。」
「「ヒュポスタシス」という術語は父と子の違いを強調するためにアリウス派によっては使用されてきたものの」「最終的なアタナシオスから出発してのみ」「三位一の学説に含まれている存在論的関係を表現するのに使用されるところとなる。」
「それまでしばしば「ウーシア」と混同されていた「ヒュポスタシス」という語は、「ウーシア」からきっぱり区別されるようになる。」
「三つのヒュポスタシスないし現実存在は唯一の実体に関連させられる」

「ヒュポスタシスという概念の歴史」「激烈な抗争の歴史と混ざり合うようになる」
「最後に出現した定式は」「《単一のウーシア、三つのヒュポスタシス(unia ousia, tres hypostasis)》」

「問題が込み入ったものになったのは、ウーシアを翻訳するのにスブスタンティアという語を使用していたラテン西洋がヒュポスタシスよりも「ペルソナ(persona)」について語ることを好んでいたからであった。」
「テルトゥリアヌスの断固とした定式化」「tres personae, una substantia」
「カルケドン派[正統派]の教父たちの忍耐強い仲介活動のおかげもあって、ラテン教会とギリシア教会の対立は第一コンスタンティノポリス公会議[三八一年]でもって解消される。」「ヒュポスタシスとペルソナの区別は純粋に用語上の区別として承認されるようになる。」

ここで、ナジアンゾスのグレゴリオスの説教集からの引用が入る。
「・・・三つのヒュポスタシスという言葉は特性が三重に個体化されることを表現しています。・・・信仰の違いだと言われていましたが、じつは言葉の違いでしかなかったのです。」


「ヒュポスタシス」が「単一の神的実体における力ないし習性としてではなく、ヒュポスタシス的現実存在として理解されるべきであるということは、ニュッサのグレゴリオスによってはっきりと主張されている。」

アガンベン・メモ(b25)

2・5
 新プラトン主義がアリストテレスの装置に何をもたらしたかということ、グローシス主義の位置づけが問題になる。

「存在の分割というアリストテレスの装置(本質/現実存在、可能態/現勢化)は揺るぎなく堅持されているものの、相対立する二つの項のあいだの関係完全に変化してしまっている。」
「アリストテレスの装置におけるヒュポケイメノン、すなわち根底に横たわっている基体は、「あった」存在としてのティ・エーン・エイナイをつうじて再捕捉されるべきはずであったものが、いまや分裂して無限の逃走過程に入り込んでしまう。」
「一方では、捕捉することも言表することもできない始元があって、存在のかなたへと前進または後退していこうとしており、他方では、それが現実存在へとヒュポスタシス的な発出を繰り返している。」
「アリストテレスの存在論は修復不可能なばかりにひび割れを起こしてしまっている。」「存在と言表活動のかなたへと逃走していく先に置かれた基体と、もろもろの多様なヒュポスタシスとのあいだには、なんらの通路も存在しないようにみえるのだ。」

「矛盾した緊張」「プラトンの永遠とアリストテレスの時間とのあいだの緊張でもある」「プロティノスとポルピュシオスのヒュポスタシス理論は空しくも解決しようとしているのだった。」
「アリストテレスの装置において暗々裡になされていた存在への時間の導入は」「ヒュポスタシスの循環運動という形態をとることとなる。」

ここで二つ注が入る。
・プロクロス:「プロティノスのヒュポスタシス的存在論を体系化しようとしている。」
「純粋にプラトン的な概念(分有、類似)をアリストテレス存在論のカテゴリーと和解させようとする新プラトン主義的こころみが必然的にもろもろのアポリアを生み出していて・・・」
・「ヒュポスタシスという概念はグノーシス主義において格別の重要性を有している。プロティノスはグノーシス派をヒュポスタシスをむやみやたらに増やしていると言って非難」
「ヒュポスタシスが主体化の場所」「現実存在に先だって存在するものから現実存在に向かう存在論的過程がなにかペルソナ的な形象のようなものを見いだしていることがはっきり現われている。グノーシス派のヒュポスタシスのなかで、アリストテレスの「基体」(ヒュポケイメノン)はそれを近代的な主体へと変容させていくこととなる過程に入りこむのである。」

 この先には、正統キリスト教神学の概念構成が展開する。

アガンベン・メモ(b24)

2・4
 新プラトン主義の意味を、ヒュポスタシスに焦点を合わせて論じる。これはキリスト教の三位一体論の思想史的な前提あるいは背景となる。

「新プラトン主義の存在論は存在の分裂と節合というアリストテレスの装置を存在のかなたにある一者に向かっての純粋にプラトン的な衝動と結婚させようとこころみている。アリストテレス的存在論の水平性に断固として垂直的なとらえ方(高いところにあるもの/低いところにあるもの、超越/現実存在)が取って代わる。」
「存在のかなたにある始元的なものとそれから発出するもろもろのヒュポスタシスの多様性との関係がプロティノスの存在論が解決するにいたらない問題を構成することとなる。」

『エンネアデス』第五論集「最初のものからそれのあとにあるものがどのようにして出てくるのか、あるいは一者について」と題された第四論文。
「不動で不変の始元的な原理」「それから謎めいたプロオドス(proodos)、「外に出ること(発出)」をつうじてつぎつぎと産み出されていくもろもろの「ヒュポスタシス」」
「最大級の意味においてそれがそうであるもの」、「そのものはそれの本来の住み処に(en toi oiekeioi ethei)にとどまりつつ、産み出されるものはそのものから、そのものは不変ののままでありつづけつつ、産み出されるのである。」
「だか、どのようにして」
「一方には、存在の(ousias)現勢化しつつある存在があり、他方には、それぞれの事物の本質に由来する現勢化しつつある存在がある。前者は現勢化しつつあるかぎりでのそれぞれの存在であり、後者はこの存在からやってくるのであって、必然的に、この存在に後続するもので、この存在とは別の存在である。」
「始元」「それはその本来の住み処につぢまりつつ、それの完全態から産み出される現勢化の運動(energeia)は、あるひとつの大いなる力から、いやすべての大いなる力のうちでも最も大いなる力から、ヒュポスタシスを捕捉し(hypostasin labousa)、存在と本質に到達する(eis to einai kai ousian elthen)のである。じっさいにも始元は存在のかなたに(epekeina ousias)あるのだ」(五・四・二・二一─三九。)

この一者・発出の存在論が、キリスト教の三位一体論、神・創造論と、密接に関わり、ぶつかり合うことになる。

アガンベン・メモ(b23)

2・3
古典的な存在論(ピュポケイメノン)とピュポスタシス概念の流行との関係。

「ピュポケイメノン、純粋の現実存在者は、アリストテレスにとっては存在の最初の直接的な形態であり、根拠をなんらひつようとしなかった。」「それ自体が最初の(あるいは最後の)基体である」「これが先に置かれるこよによってあらゆる理解とあらゆる述語作用は可能になる」

「ストア派」「存在自体の現実存在への移行を定義するために」「「ピュピスタスタイ」」「「ピュポスタシス」という述語を使用していた。」
「ピュピスタスタイ」:「「言い表しうるもの」、時間、出来事のような被物体的なものどもの存在様態を指示」
「ピュパルケイン」:「物体の現存との関連」
「実体ではなく、過程または出来事の性質をもつ、存在の非物体的な次元が存在する」

「ピュポスタシスはいまやひとつの操作のようなものに──概念上は生成の順序としては二次的なものでしかないとしても──転化する。この操作を通じて存在は現実存在となって実現されるのである。」「現実存在はなにか存在が産み出し、しかしまた必然的に存在し所属するものでもある。」
「現実存在には、存在の操作、解放、ないしは現実化以外の根拠は存在しないのである。」

 キリスト教思想との関連で興味深いのは、このセクションに付された次の注。
「フィロンは(いつものことながら、新プラトン主義とキリスト教神学においてようやく確固たるものとなるもろもろの傾向を先取りして)、《ひとり神だけが存在のなかには現実に存在している(あるいは存続している)》」「と書いている。」
「存在者はヒュポスタシス、現実存在の様態で存在する。が、ヒュポスタシス化されることのない存在もまた生じるのである。」
「一方では、フィロンの神があり、そこでは存在と現実存在を区別することができない(あるいは現代の表現をパラフレーズするなら、存在の実存は本質のうちに横たわっている)。他方では、多様な存在者がいて、そこでは存在は現実存在のうちに残り滓として横たわっている。」
「本質の実存からの、そして神的なものの人間的なものからの、やがてますます大きくなっていく乖離の過程が始まる。」

もちろん、この乖離の過程がその全貌を現すには、長い年月が必要であった。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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