政治神学の動向

政治神学は、確実に一つの研究領域・学科として確立してきていると言ってよいと思いますが、問題は、その範囲・内実です。どの専門領域も、その視点から隣接諸学科を包括的に、自らの範囲に編入して捉える傾向があるため、学科相互の関係が曖昧になることが少なくない。ポイントは、それぞれが何をその固有性にしているかであり、実際の議論では、相互包括的な論になることは当然かもしれない。今回紹介の文献でも、「政治神学」はきわめて広範な問題領域に及んで描かれている。

Craig Hovey, Elizabeth Phillips(eds.),
The Cambridge Companion to Christian Political Theology,
Cambridge University Press, 2015.

Notes on Contributors
Preface

Part I The Shape of Contemporary Political Theology
  Mid-Twentieth Century Origins of the Contemporary Discipline
1 European Political Theology (Jürgen Moltman) 
2 Liberation Theology (Miguel A. De La Torre)
3 Public Theology (Hak Joon Lee)

  Political Theology and Related Discourses
4 Catholic Social Ethics (Lisa Sowle Cahill)
5 Protestant Social Ethics (D. Stephen Long)

  Twenty-First Century Reimaginings
6 Postliberalism and Radical Orthodoxy (Daniel M. Bell Jr.)
7 Postcolonial Theology (Susan Abraham)

Part II Contemporary Questions in Political Theology
  The contemporary Discipline and Traditional Sources
8 Scripture (Christopher Rowland)
9 Augustianisms and Thomisms (Eric Gregory and Joseph Clair)

  Issues
10 Liberalism and Democracy (Craig Hovey)
11 Capitalism and Global Economics (Phikip Goodchild)
12 Political Theology as Threat (William T. Cavanaugh)

  Ends
13 Good Rule (Peter J. Leithart)
14 Eschatology and Apocalyptic (Elizabeth Phillips)

Index  





スポンサーサイト

アガンベン・メモ2

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用──脱構成的可能態の理論のために』の2回目です。

第一部 身体の使用
1 働きを欠いた人間
1・1
「《身体の使用》」「という表現は、アリストテレスの『政治学』の最初で、奴隷の本性についての定義がなされる箇所に出てくる」、「都市は家族また家(oikiai)で構成されている。そして家族はその完全な形態においては奴隷と自由人とから」「なる、と」、「三種類の関係」
「主人と奴隷のあいだの関係が最も重要な関係ではないまでもすくなくとも最も明白な関係であるらしい」(16)
「奴隷を《人間でありながら、その自然によって、自分自身に属するのではなく、他人に属する者》を定義」、「《だれが自然によってこのようなものである人間がいるだろうか、それとも・・・》」、「回答は、支配の正当化を通じてなされていく」、「専制的な支配」「魂の身体にたいする支配」、「理知の本能的欲求にたいする支配」「政治的な支配」
「支配に必然性と自然な」「性格」(17)
「アリストテレスの思想において家(oikia)を都市(polis)から分離している明白な区別」「魂と身体の関係は(主人と奴隷の関係は)家政的な関係であって政治的な関係ではないということ」、「主人と奴隷とあいだの関係と魂と身体のあいだの関係とは相互に定義しあう間柄」、「家を都市から分離している句切りは、魂と身体を切り離すと同時に結び合わせているのと同じ閾の上で主人と奴隷を切断している」、「この閾を問うことによってのみ、ギリシアにおける経済と政治の関係は真に理解可能になるのではないか」(18)
1・2
「劣る」「その働きが身体を使用することにあって」「自然による奴隷」「支配によって支配されるほうが善いこと」
「エルゴン(ergon)」「人間に固有の働き」「《ロゴスにしたがって魂が働いていること》」、「奴隷とはその働きが身体の使用にのみあるような人間のこと」(19)
「奴隷は」「アリストテレスが「身体の使用」以外の言い方を見いださせないでいるなにものかであるうような人間的なものの次元の出現を代表」
「エルゴン(ergon)とクレーシス(chresis)、働いていることと使用とは、それぞれ魂と身体にかかわるものとして、厳密に対置されているようである」(20)


 かなり重要な問題がはじめから議論されます。
・「魂と身体」と「主人と奴隷」、「支配」
 この支配の存在論は、聖書的思惟との対比を必要とする。古代ギリシャでも古代イスラエルでも、奴隷は存在していたが、その存在的身分は対照的である。
 ヨベルの年の規定。王権に対する反王権イデオロギーの存在。おそらく、これらは、神と人間の契約に根拠づけられる。
・「政治と経済」との区別と関係、都市と家。これは有名。
・「働いていること」と「使用すること」は、所有と使用という対比に関連付けられることによって、ヨーロッパ思想の基本構造となる。とくにクレーシスは、ウェーバーの資本主義論のキーワードとなる。

アガンベン・メモ1

 ジョルジョ・アガンベンの『身体の使用』のメモを開始します。なんといっても、大著のため、いつおわるのか、そもそもおわるのかも未定です。

ジョルジョ・アガンベン
『身体の使用──脱構成的可能態の理論のために』
みすず書房、2016年(原著、2014年)。

まえおき

プロローグ
第一部 身体の使用
第二部 存在論の考古学
第三部 〈生の形式〉
エピローグ 脱構成的可能態の理論のために

訳註
訳者あとがき

文献目録
人名索引

まえおき
「その探究は、他のあらゆる詩作と思索の仕事もそうであるように、けっして終結することはありえないのであって、ただ放棄されうる(そしてひょっとして他の者たちによって継承されうる)にすぎないのである。」(1-2)

プロローグ
「内密の生、わたしたちの〈生の形式〉」「捕まえようとしても、わたしたちの掌中には退屈でなんお感動も呼ばない日常性しか残らない」(4)
「かれらの「存在」は、いってみれば、完全に《私的生活の内密さ》に平準化されてしまっていた。」(8)
「わたしたちの文化においては、生はけっして生として定義されることはなく、そのつご、ビオスとゾーエー、政治的な資質をさずけられた生と剥き出しの生、公的な生と私的な生、植物的な生と関係の生とに分節化され分裂させられており、分割された部分のそれぞれが他の部分との関係のなかでしか規定されえなくなっている。」(10)
「私的な生が内密な生としてわたしたちに随伴していることはなにをいみしているのだろうか」、「この分離とこの分離不可能性」(11)
「内密の生の不透明さ」(12)
「今日起きているように、政治および公的領域の日蝕が私的なものと剥き出しの生をしか存続させないときには、線上の唯一の主人でありつつけている内密の生が、私的な生であるかぎりで、公にされ、みずからのもはや笑い出すわけにはいかない・・・記録資料を伝達しようとこころみなければならないのであって」(12)
「公的なものと私的なもの、政治と個人的な生の記述、ゾーエーとビオスの分離を超えたところで、〈生の形式〉と身体の共通の使用の輪郭を描き出すこととができるようになったときにのみ、政治はその無言状態から抜け出すことができるようになるのであり、個人的な生の記述はその精神薄弱状態から抜け出すことができるようになるのである。」(13)

【テーマは生と身体、政治と日常性。1995年から開始された「ホモ・サケル」シリーズの締めくくり。読者としても、そろそろ全体を読み直し、そこから自分の思索を始める時である。】

南原繁『国家と宗教』8

  今回は、いよいよ、南原繁 『国家と宗教──ヨーロッパ精神史の研究』 の補論「カトリシズムとプロテスタンティズム」(1943年)も、その最終部分「八」となります。「国家と宗教」という問題設定の意味(精神のレベルの問いであること=「ヨーロッパ精神史」)を確認した上で、同時代の政治状況の大問題であるナチズムを再度論じ、来たるべき戦後の世界秩序とそこにおけるドイツと、そしてキリスト教の意味を展望するというものである。確かに長いスパン(50年を超える)で見れば、南原の展望の確かさを確認できるように思われる。
 最後の部分で、ドイツの運命としてのナチスが論じられ、その後が展望されたことは、 『国家と宗教』の深層にある意図を浮かび上がらせるものと言える。なぜなら、この補論は 『国家と宗教』の「全体の「緒論」であり、同時に「結論」でもある」(第三版の序)からである。そしてこの補論の結論がナチズムをめぐっているわけである。さらに、このナチズムの問題が日本の天皇制国家・国体と繋がっていることを念頭におくならば、 『国家と宗教』は、1942年という時代状況で、天皇制国家の精神性を理論的に批判し、戦後を展望した書と評することは決して不当ではないように思われる。

 以下、抜粋。
「問題の核心は、教会と国家との関係にあるのでなく、それを超えてあくまでキリスト教精神と国家精神との関係にあると思う」
「現代ドイツ・ナチス的精神」「ニイチェと同じく、何故カトリックおよびプロテスタントを通じてキリスト教一般を否定し」「むしろ古代世界への復帰に向かったか」(406)
「中世から近世にわたって」「国家は単に権力的手段視または機構視せられ」(406)
「ナチスは、むしろそれを徹底して、そうした自然的存在の背後に、かえって「暗き深淵」を覗かしめ、新たに国家の種族的=生物的存在の力を強調することによって、巨大なデモーニッシュな国家をつくり、あらゆる精神的=価値的なものをみずからのうちに引き寄せて、みずから生の根源的な創造的原理たらんとするものと解して差支えない。ここにヨーロッパ文化の伝統であるギリシャ的真理概念もキリスト教理念も、すべて民族的非合理的価値に吸収される結果になったのである」
「「政治的真理」の報復であり、「国家理性」の高揚」、「民族的政治共同体それ自身、一個の偉大な個性として、自己の存在の権利とその政治的=歴史的現実の価値の主張である」、「この偉大な世界の政治的現実」(407)
「ナチスにおけるこうのような新たな「政治的現実性」の意義は、ほかならぬドイツ理想主義・・・との、永遠の離反に終わるであろうかということである。そこに今後の問題が横たわると思う」。
「かの本来のドイツ精神の深味」「いかなる現実のなかにも理念を持ち込み、理念と結びつけ、それに従って形成しなければ已まぬ精神」「「精神の国」「理性の国」」「国民をして真の統一的全体たrしめる最深の根拠」「純粋なキリスト教理念とギリシャ主義への通路」「カントやルッターが歩んだ道」(408)
「国家共同体は、それを構成する個人の自律、言いかえればその宗教的信仰ならびに文化的作業の自由の意志による内面的紐帯なくしては、決してみずからの自律性を確立し得ないということである」
「この本来のドイツ精神の回復と同時に、ドイツ国民は一般にヨーロッパ文化と共同し得る「世界主義」の理念をもふたたび見いだすであろう。それが見いだされるとき、その基礎においてのみ、ヨーロッパの真の秩序が樹立されるであろう」
「世界史的転換の事業に呼び出されたもの」(409)
「ヨーロッパ諸国民、全人類の共同の課題として認識せられることが重要である」、「単なるヒューマニズムでなくして、いままでよりも一層内的に人類相互を結びつけることを必要とし、そのために諸国民のあいだに緊密な精神的紐帯の結合と深い内面からの新たな建設を必要とする」、「力強い内的生活の形成が不可欠」「端的に言って、宗教──独自の精神の世界の開示が必須である」
「おのおのの人間の魂に神的絶対者を映し出すことによって」「人間を真の精神文化の闘士として固く共同体に結合」
「それはもはや民族共同体を超えて広く世界と人類に結びつけねば已まぬであろう」、「それぞれの諸国民相互のあいだの協同によって、新しい世界の道義的=政治的秩序が創られねばならない」(410)
「個々の宗教のほかに、ついに全人類を包括せねば已まぬ世界的=普遍的宗教」(410)「としてのキリスト教」、「何よりも心情の純粋な内面において新しい世界を開き、万人を結びつけることによてt、最深かつ不変の基礎を供する」
「その諸教派は、キリスト教内部の対立を超えて、同じく世界歴史的現実のなかに不可視の「神の国」の建設を目ざして、共同の事業に参加することが要求されるであろう」(411)。

南原繁『国家と宗教』7b

 南原繁 『国家と宗教──ヨーロッパ精神史の研究』 の補論「カトリシズムとプロテスタンティズム」の「七」の後半です。「七」のテーマは、日本的キリスト教ですが、後半はその内容に直接関わる議論です。ここでは、日本的キリスト教についての積極的な可能性が論じられ、それは、内村鑑三や矢内原忠雄などの議論と合致するものと言えますが、ほかの文脈での、ナチスを典型とした「民族」「国家」への批判を考えれば、ここだけで、南原の日本論を捉えることには無理があるように思います。『国家と宗教』という著書の内部でもそうです。1942年という時代背景が問題です。また、「世界的なる新日本文化の展開」は戦後の南原が取り組んだ問題と言うべきです。
 『国家と宗教──ヨーロッパ精神史の研究』の長い補論も、次の「八」で締めくくりとなります。後もう少しです。

「ヨーロッパ世界に今教会が発展して来たのは、固有の伝統と歴史的環境を必要とした。いま欧米のごとき何らの歴史と伝統を持たないわが国に必要なことは、それを創りまたは模倣するおとではなくして、ヨーロッパ世界とは異なった出発をなるべきであろう。何か。それは原初にしてかつ新たな方法である。すなわち、ひたすらキリスト・イエスの人格において象徴せらるごとき神的絶対理念との結びつきによって、内面的に更生された新たな人格的関係である」。
「それには、長い歴史を通じて君臣・父子のあいだの絶対的忠信と信従の関係を実践し来たったわが国には、ただに絶対主義的・封建的道徳という以上に、それを超えた、固有の高い道徳的基礎を欠きはしない」(403)
「国民の各個がこの聖なる深き結合関係に入り込み、ついには全体のわが国民的共同体が真の神的生命によって充たされるにいたるまで、神の国の形成は已まないであろう。しかるとき、日本国家に内的基礎は最も鞏固な永遠の精神と地盤の上に据えられたものとなるであろう。「日本的キリスト教」とは、これ以上のものではないのである。」
「以上のごときは、往々「無教会」主義の名をもって呼ばれるところのものである」、「近世思想家としては、ヨーロッパにおいてはおそらくキェルケゴールを挙げ得るであろう」、「神の前に謙虚な「孤独の人」を説いた」、「わが国おいて」「内村鑑三その人」、「ドグマと制度の教会の権威に反対して、敢然純粋福音主義のために闘ったのは彼であった」(404)
「神の前に真の「日本人」たることを教えた」、「彼の無教会主義信仰の裏には、燃ゆるがごとき祖国愛が脈うっていた」
「キリスト教がわか国体と相容れるか否かは、もはや議論を超えた問題である」、「三谷隆正氏の言えるごとく、「問題は・・・これをいかに摂取するかである」」、「日本民族は、これまで世界的宗教たる仏教を摂取して、すぐれて日本的なものに創り上げてきたのであった」、「近世の初め」「第一の宗教改革を断行したものは、ゲルマン的ドイツ民族でった」「ドイツ的キリスト教を完成したのであった」、「同様のことが、将来第二の宗教改革として、東洋の日本民族によって遂行し得られないと、誰が断言し得るであろうか」(405)「日本が将来、世界の精神界に寄与し得る大なる一つの道は、この東洋的にして世界的なキリスト教の東洋的還元と日本化にあると思われる」、「新たな意義において世界的なる新日本文化の展開を期待する者」(406)
プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、今後開設の別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
Translation(自動翻訳)
FC2カウンター
カレンダー
04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR