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アガンベン・メモ(b3)

1・2
『カテゴリー論』 の基本性格(「著作の対象」)について。

「古代の注解者たち」
「言葉なのか」「事物なのか」「概念なのか」
「ヨハネス・ピロポノス」によると「概念をつうじて事物を指示する言葉」という「イアンブリコスのテーゼ」

「『カテゴリー論』において論理学と存在論を区別することの不可能性」
「アリストテレスが問題にしているのは、言語活動によって指示されるかぎりでの事物=存在者なのであり、事物=存在者に言及したものであるかぎりでの言語活動なのだ。」
「存在は言われる」
「西洋哲学の歴史においてカテゴリーは述語作用の類としても存在の類としても立ち現われることとなるのである。」

 たしかに、西洋的思惟の基本特徴はここに見出されるのだろう。
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アガンベン・メモ(b2)

1・1
第一考古学は、当然、アリストテレスから開始されることになる。『カテゴリー論』である。

「アリストテレスの存在論を定義している存在の分割装置」
・第一ウーシア。「《最も本来的な意味で、そして第一に、また最も多く言われるウーシア(本質・実体)》」「《基体(hypokeimenon)──下に横たわっているものsub-iectum について言われることもなければ、基体のうちにあることもないもの》」「特異なもの、固有名、デイクシス[直示語]をつうじて例示される《この特定の人間》、《ソクラテス》、《この特定の馬》」
・第二ウーシア。「《第一のものと言われるウーシアがそれのうちに現在している種と、さらにはそれらの種の類》」
「分割がその歴史のなかで分節化されてきたさいの語(第一ウーシアと第二ウーシア、本質存在と現実存在、quod est [存在すること]とquid est [存在するもの]、anitas [存在性・「が在る」性]とquidditas [何性]、共通本性と代示・・・)がなんであれ、決定的なことは、西洋哲学の伝統のなかせ存在は生と同様に、つねにそれを横断する分裂から出発して問われるだろうということである。」

続く中では、「ヒュポケイメノン」のラテン語訳について、トマス・アクィナスの用語で、存在の分節化がどのようになされているかが論じられる。

 このセクションの締めくくりは、「そのつど表現される用語がなんであれ、この存在の分割がハイデガーによると西洋形而上学を定義しているという[存在と存在者の]《存在論的差異》の根底にあるのである。」

 人間であること、文化的であることは、分節化を基礎にする、ということ。この分節化の仕方に、文化圏の特徴が存在する。

アガンベン・メモ(b1)

 『身体の使用』の第一部のメモが完了したことを受けて、アガンベン・メモをどのように再開するかについて考えてきましたが、本ブログで、第二部のメモを掲載するということに考えがまとまりました。メモが完結するまでかなりの時間がかかることが予想されるなど、メモの再開にはやや躊躇する点があったが、ともかくも、アガンベン・メモは再スタートとなる。

第二部 存在論の考古学
 本論(三つの章、存在論的装置、ヒュポスタシスの理論、様態的存在論のために、とインテルメッツォⅡが含まれる。第一部よりは、コンパクト)に先だって、第二部における問いが示される。

第二部の課題は、「第一哲学すなわち存在論へのアクセスが今日もなお──あるいは新たに──可能かどうかを検証」することであり、これは、「中断してしまったか見失ってしまった小径をふたたびたどることができるか、それとも、最終的に放棄してしまわざるをえないかかをみずから尋ねようと」することである。

アガンベンの戦略は、これを、「考古学という形態」において遂行しようとすることである。それは、次の理由による。
・「存在論には西洋の歴史的命運がいっぱいに詰めこまれているが、それは存在に説明不可能でメタ歴史的な魔術的力が属しているからではなく、まさにそれとは逆に、存在論は言語活動と歴史的に分節化される根源的な場所であるからからである。」
・「存在論はアントロポゲネシスの記憶、その分節化が産み出される瞬間の記憶をみずからのうちに保存している。」「人間が人間的な存在になるということは、過去に一度起きたならそれで完結してしまう出来事ではない。それはむしろ、たえまなく起きる出来事であり、現在もない進行中の過程であって、その過程のなかで人間はつねに人間的な存在になりつつあるのであり、同時にまた、つねに非人間的な存在のままでありつづけている(あるいは非人間的な存在になりつつある)のである。」
「第一哲学はこの出来事の記憶であり反復である。」
「この歴史的ア・プリオリに考古学的研究はそのつど遡ろうとするのである。」

ここで、「考古学」という言葉から想像されるように、フーコーへの言及からはじまる長めの注が入る。

「哲学的考古学を、人類の歴史を条件づけてそのもろもろの時代を定義している歴史的ア・プリオリを明るみに出そうとするこころみであると定義」した上で、アガンベンは、「第一哲学の不可能性」という事態についての考察を、カントからハイデガーまで、そしてハイデガー後において辿ることで示そうとする。
・「カントが「形而上学」と呼ぶ第一哲学の不可能性」。「歴史的ア・プリオリのアントロポゲネシス的出来事(言語活動と世界との分節化)から認識への転位、もはや動物ではないがいまだ人間でもない存在から認識する主体への転位」、「存在論はこうして認識論に変容してしまい、大地位哲学は認識の哲学に転化する。」
・「ハイデガーまでは、カント以後」「超越論的次元にまるでそれが独りだけでやっていけるとでもいうかのようにしがみついてきた。」「まさに諸科学のほうでは無制限の技術的進歩に向かって放り出されて、そのようなみずからの科学としての可能性の条件の定義などはなんら必要としていないことを証明しつつあったというのにである。」
・「超越論的なものからの脱出の道を探ろうとしたのは、ニーチェ、ベンヤミン、フーコーといった何人かの非職業的な哲学者と」「エミール・バンヴェニストのような言語学者であった。」「認識から言語活動へと後ろ向きに転位させることによって」、「言表の生起をそれらの意味内容以前のところ、あるいはそれらの意味内容を超えたところで問いに付していた次元を個別に取り出すことによっておこなっていたのだった。」
「話者がカントの超越論的主体に取って代わり、言語が歴史的ア・プリオリとしての存在の場を占めることになったのである。」

「存在論のこのような言語学化の傾向は今日、完結点に到達したようにおもわれる。」
「しかしまた変化してしまったのは」
「言語活動はもはや、思考されないままにとどまりながら、言葉を話す人間たちの歴史的可能性を規定し条件づけるような、ひとつの歴史的ア・プリオリとしては機能していないということである。」
「存在と全面的に同一化」「非歴史的な中立的現実として定立」、「もはや歴史的生成のそれを確認できるなんらの意味も条件づけておらず、また時間のなんらの画期的分析化も条件づけていない。」
「わたしたちはいかなる歴史的ア・プリオリにも規定されていない」「時代、」「すなわちポスト歴史的な時代」「に生きている。」

「存在論の考古学」「存在論的装置の系譜学」を「たどうろうとこころんみているのは、この見方に立ってのことである。」

アガンベンの問題意識はかなりはっきりしてきた。カント以降の哲学的思惟が現代の言語論的転回によって大きく転換したなかで、挫折した・中断した存在論の別の可能性を考古学という道を経由して再度思考すること。 

アガンベン・メモ(a49)

8・10
・これで、「インステルメッツォⅠ」を除いた、「第一部 身体の使用」が締めくくりとなります。「8 自分のものとして所有することができないもの」の締めくくりでもあります。本書全体で言えば、三分の一のメモ作成が完了しました(時間を要しただけのことはあったと感じています)。
 締めくくりとなる「8・10」のテーマは、「自己の使用」を「所有できないもの」との関係で「内密なもの」と規定した上で、自己の構成としてのプライヴァシーへ展開し、その政治性(支配、暴力)を論じるといった手順です。

・「わたしたちは自己の使用を自分のものとして所有することができないものと関連しているかぎりで「内密なもの」と呼ぶことができいる。」
「わたしたちが孤独の瞬間を体験する、わたしたち自身への特別な現前-不在であれ、わたしたちが内密のうちに経験しているということは、わたしたちが自分のものとして所有できない非知のゾーンと関連したままでいるということにほかならない。」

「この非知の不透明な領域が近代においてはプライヴァシー(privacy)の最も特権的な貴重な内容に転化する。」
「近代人は」「自分のプライヴァシーへのアクセスを規制する」「能力をつうじて定義される。」「《プライヴァシーの規制は、それをつうじて諸個人が自己と他者とのあいだの境界をあるときは浸透可能なものとし、あるときには浸透不可能なものとする過程のことである。》」
「この自己使用の選択的分有において賭けられているのは、現実には、自己の構成そのものである。」「プライヴァシーとは循環的な装置であって、この装置をつうじて、個人は自己へのアクセスを選択的に規制することによって、自己自身を自己のプライヴァシーの前提および所有者として構成するのである。」
「主体と客体が無規定な状態にある身体の使用に、こうしてプライヴァシーの支配が主体の構成者として取って代わる。」

「諸個人によって形づくられた社会においては、自己の使用と自分のものとして所有することのできないものへの関係が熱烈な所有欲へと変容するおとが、それが頑強にも隠蔽されるままにとどまているだけにいっそう決定的に政治的意味をもっている、理由が了解される。」
「サドの作品において」「卓越して政治的な場所は各市民がそれぞれ別の市民を呼び寄せてその身体を自由に使用する権利を有するメゾンに転化する。」「内密性が政治における賭け金になり、閨房が全面的に都市に取って代わる。」
「主権者としての主体がなによりもますもって自己の身体にたいする主権者であるとするなら、もし内密性──すなわち、自分のものとして所有することのできないものであるかぎりでの自己の使用──がなにか基本的な生政治的実体のようなものに転化するとするなら」「市民はそれぞれ他者の自分のものとして所有することがdけいないものを好きなように分有する権利をもつ。ころころの身体の使用こそがまずもっては共同のものなのだ。」

「共和主義的相互性にもとづく法律的契約であったものが、『ソドムの百二十日』ではたんなる支配と無制限の暴力の対象として提示されている。」「強制収容所送りになった者たちの証言」
「各人の生政治的な実体を構成する自分のものとしてに所有することのできないものとの関係」は「内密性の主人」「自分のものの自由な使用の主人としてみずからを構成する者によって暴力的に我有化されるところとなる。」

「所有権ではなく、自分のものとして所有することのできないものだけが、共同のものなのだ。この自分のものとして所有することのできないものの分有は愛である。サドの世界がそのきわめて真面目で教訓的なパロディを構成しているところの「愛されるものの分有」なのである。」

・このサドへの言及は、「インステルメッツォⅠ」では、フーコーとピエール・アドとの対話から初めて、「サドマゾヒズム的関係はそっくりそのまま権力関係に内在している」こと、そしてここで「生じる権力関係の変容は存在論の平面における変容を含意しないわけにいかなかった」として展開され、これは、「第二部 存在論の考古学」へと接続する。
 この「アガンベン・メモ」は、「インステルメッツォⅠ」を省略し、次回から、第二部へと進む。

・「権力関係が必然的に主体に召喚することになるのだとするなら、まったくもろもろの戦略的関係から実を引き剥がした倫理のゾーンの可能性、支配状態と権力関係双方の彼岸に位置する統治しえないもの(Ingovernabile)の可能性なのである。」

アガンベン・メモ(a48)

8・9
 いよいよ風景についての議論がなされる。「8・8」における動物と人間、環境と世界の区別の先が問題になる。

「風景」「動物の環境と人間の世界にたいしてさらに一歩前進した段階」
「世界とそれを構成しているすべての要素」は「もはや動物の環境を形づくる部分ではなく、いまでは存在の平面上でひとつまたひとつといわば不活性化され、総体として新しい次元で知覚されている」。
「それらをこれまでになかったほど完璧かつ明瞭に見ている」が、「しかしまたわたしたちはそれらをもはや見ておらず、それらは風景のなかに見え去ってしまっている。」
「存在は、風景の状態のもんとにあっては」「宙づりにされ動かなくされる。」「世界は完全に自分尾ものとして所有することができなくなって、いわば存在と無のかなたへと向かう。風景を眺めやる者は、もはや動物的な存在でも人間的な存在でもなくて、当人自身が風景であるにすぎない。」「ただひたすら眺める。」

「世界が動物の環境を働かなくさせるものであったとsたなら、風景はいわば働かなくされるものを働かなくさせるもののことであり、不活性化された存在である。」「風景を形づくっている諸要素は、動物的な抑制解除するものでもなければ、存在するものでもなく、存在論的に中立である。」「無と非開示の形態にいて世界に内属していた否定性は」「いまやいとまをとらせられる。」

「風景は存在のかなたへと持ち運ばれてしまっているかぎりで、使用の卓越した形態である。風景のなかでは、自己の使用と世界の使用とは余すところなく一致する。自分のものとして所有することのできないものであるかぎりでの世界の状態としての正義は、ここでは決定的な経験である。」「自分のものとして所有できないもののうちにあっての〈生の形式〉もしくは正義としての住まい」
「世界にあっては人間が必然的に投げ出されて居心地が悪い状態に置かれているのだとしたなら、風景にあっては人間は最終的に自分の家にいるようにくつろいだ気分になる。」

・「環境・世界・風景」という仕方で、所有することなき使用という生の形式が、存在論的あるいは正義論的に説明された。「宙づり」「不活性化」というキーワードの理解がポイント。存在と無の彼方としての風景とは、何だろうか。もちろん、風景であるが。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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