宗教的寛容論の再開

 わたくしは、かなり以前に(15年ほど前)、宗教的寛容論に集中的に取り組む機会があった。
 それは、京都大学21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」(拠点リーダー、紀平英作。2002年度から2006年度の5年間)内の研究班「多元的世界における寛容性についての研究」である。わたくしはこの研究班の研究リーダーをつとめたが、この研究班においては、多元的世界において生じる多様な対立状況の中で、寛容性がいかに問われ構築されてきたかを実証的に論じ、現代の寛容論に対して理論的な基盤を提供することが目ざされた。この研究成果は、次の論集として刊行された。

芦名定道編
『多元的世界における寛容と公共性-東アジアの視点から-』 
晃洋書房、2007年3月。

 この時期に多元性・寛容はいわば流行のテーマであり(あるいは流行しかかっていた)、この前後に類似のテーマで多くの書籍が、日本でも海外でも刊行された。しかし、しばらくして、寛容論についての本格的な研究は停滞に陥り、現在まで必ずしも大きなッ進展もなく継続しているように思われる。

 しかし、こうした状況にもかかわらず、寛容論は依然として重要なテーマであり、以前の研究を含めて、その後の状況を検討することは意味があるものと思われる。現在、宗教的寛容について改めて考察を再開しつつある関係で、本ブログでもこれに関連した記事を随時掲載したい。
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アガンベン・メモ(4)

アガンベン・メモを続けます。なお、連続してメモを掲載していると、そもそもどの著作のどの部分のメモかがわかりにくくなりますので、今回は、念のために、最初にその点を記します。

ジョルジョ・アガンベン
『身体の使用──脱構成的可能態の理論のために』
みすず書房、2016年(原著、2014年)。

まえおき

プロローグ
第一部 身体の使用
1 働きを欠いた人間
1.7


「「道具」という意味においてだけでなく、「器官」という意味において、主人の(身体の)一部であるところから、アリストテレスは奴隷と主人のあいだの《生の共同 koinonos zoes》について語ることができるのだった」、「奴隷において身体が使用されるのは、自由人において魂がロゴスにしたがって働いているのと同じことなのである」
「自分の身体を使用することによって、奴隷は主人によって使用される」、「奴隷の身体を使用することによって、主人は現実には自分の身体を使用するのだ」、「自分の身体と他人の身体との無差別点」

「人間と自然のあいだの生産関係は人間同士の関係の対象に転化する。そしてそのなかで人間同士の関係そのものが物象化されて所有の対象となる」
「奴隷の身分に起こっていることは、主人と自然との関係は、ヘーゲルが自己承認のための弁証法のなかで直感していたように、いまや奴隷と自然との関係によって媒介されたものになっているということである」
「自然との有機的な新陳代謝関係における奴隷の身体は、主人の身体と自然との鐘鋳の媒体として使用されるところになるのである」
「倒錯が始まるのは、奴隷身分が社会制度として構成されることをつうじて、相互的な使用関係が法律的なかたちで領有され物象化されるようになるときでしかないのである」
「わたしがわたしをわたしと自然との関係の倫理的主体として構成することができるのは、この関係が他の人間たちとの関係によて媒介されているからでしかないのである。」
「「機能的社会化」と呼ぶものをつうじて他人を介しての媒介を自分のものにしようとこころみるなら、そのときには使用は搾取に堕してします。そして資本主義の歴史が十分に証明しているように、搾取は操作されることの不可能性によって定義されるのである。」

古代の古典的奴隷と主人との関係は、興味深い。近代以降、奴隷制が否定されることと、労働の出現とは、どのような関係にあるのか。このように見てくると、事柄の根本から考えることがいかに重要かがわかる。

アガンベン・メモ(3)

 身体・使用と所有という議論を行うために、奴隷と身体の使用という問題をアリストテレスにしたがって論じる途中でメモがとまっていましたが、再開します。

第一部 身体の使用
1 働きを欠いた人間

1.5
「奴隷の身分はまったく特異な人間的なものの次元」「を定義していることに求められる」「その次元こそ「身体の使用」という連辞は名指そうと努めているのだった。」
「家政の問題と絡めたかたち」
「家長が奴隷を支配するのは」「自然に反しており」「正しいことではなく強制的」、「ウテーマタ」「家財と家政の一部を構成する道具の比較」
「奴隷もある意味では生命をもった家財」「下働きのいわば道具のための道具」「あるいはその他の道具に先立つ道具」
「家財または生命をもった道具」「「自動人形」ないしは生命をもった道具としての奴隷という定義」、「奴隷は、ギリシア人にとっては、近代の用語でいうと、労働者の役割を演じるよりは機会および固定資本の役割を演じるものであったこと」
「特別の機械」「生産のためのもんではなく、たんに使用のためのもの」

1.6
「道具のテーマを使用のテーマに結びつけている」
「奴隷も実践にかかわることどものための下働き人」
「「家財」という言葉は「部分」という言葉と同じ意味で用いられる」、「奴隷のほうは主人の奴隷であるだけでなく、完全に主人の部分なのである」
「人間でありながら」「自然によって自分自身に属するのではなく、他人に属している者、これが自然によって奴隷である」、「自分でありながら家財である人間」「実践する者から分離した道具」「である人間」
「「身体の使用」という表現において、使用制作の意味においてではなく、実践の意味において受けとめられねばならない。奴隷の身体の使用はベットや衣服の使用に類似しているのであって、琴の撥や織機の杼の仕様とは異なる」
「ある目的からまったく独立した使用の次元を理解することは、わたしたちは容易ではない」、「わたしたちは奴隷の労働を、近代の労働者の、sくまでも生産本位の労働を判断基準にして考察することに慣らされてきた」、「奴隷の「身体の使用」を製作と生産の領域から脱却させて、それを実践と生き方の──アリストテレスによると、定義からして非生産的な──領域に置き戻してやることである」
「なにか外的なものを生産する作業とそこからは使用だけが出てくる作業との区別」
「働き(ergon)はテロス」「働いていること(energeia)は働き」
「視力および見る活動」「見る活動よりほかにはなにも産み出さない」
「使用以外のなにものかが産み出される場合には、働いてきることの本質はそれによって産み出されたもののうちにある」、「働いていること以外になんらの働きも存在しないような活動の場合には、働いているものの活動そのもののうちにある」
「エネルゲイアが外的な製作物のうちにあってギリシア人が軽蔑する傾向になったポイエーシス[製作]の活動にないする、使用以外になにものも産み出さないような活動の優位性を含意しているのだった」
「その働きが「身体の使用」にのみある奴隷は」「見る活動や観想や生命が属しているのと同じクラスに登録されていただろうということ」

製作と活動、アーレントにおける有名な区別、そして労働。アガンベンとアーレントの議論とを詳細に分析する必要がある。

アガンベン・メモ(2)

今回は、再開した、アガンベン『身体の使用──脱構成的可能態の理論のために』(みすず書房)のメモの次の部分です。テーマは、引き続き「奴隷」であり、アリストテレスが「奴隷」に対してどのようにアプローチしているかの、方法論的な議論の検討に関わるものです。「アリストテレスが問いを立てるさいの地盤を形成している問題的なコンテクストおよびその本性を定義しようとこころみるさいの道具となっている概念的枠組みについての予備的考察」。

第一部 身体の使用
1 働きを欠いた人間
1・4


「奴隷の身分にかんして」「逆の手続き」
「奴隷の身分そのものの存在とその正当性にかんするものではなく、奴隷の身分の《自然学的な問題》にかんするもの」「奴隷に定義に対応するような身体が自然に存在するかどうかを確定することが問題」
「この意味では、ここでの調査は弁証論的なものではなく、自然学的なものなのだ」。

奴隷の身分の「基礎は自由人の身体とくらべた場合の身体的な相違にのみある、と主張している」、「「なにか奴隷的な身体のようなものが存在するか」という問いに転化する。回答は肯定的なものである。」

しかし、
「奴隷の身分についての「自然学的な」論述は、それに確実な基礎を確保してやるどころか、「奴隷と主人のあいだには身体的な相違があるのか、ないのか」という、それを基礎づけえたはずの唯一の問いを回答のないままに放置してしまっているのだ。」
「この問いには、すくなくとも原理上は、人間の場合には現に与えられているものとは別の身体が可能であり、人間の身体は組成上分割されている、という考えを含みもっている。」

したがって、
「「身体の使用」とはなにを意味しているかを理解しようとこころみることは、人間のこのもうひとつ別の可能な身体について考えることをも意味する」。

アガンベン・メモ3=(1)

 「アガンベン・メモ」というカテゴリは、本ブログで、これまで何度か用いてきたもので、もっとも近いところでは、2017年3月6日に「アガンベン・メモ2」が掲載されている。しかし、その後、継続することなく、そのままであった。今回、この続きを再開したいと考えている。しかし、本来は、「アガンベン・メモ3」とすべきろことであるが、あまりにも間があいてしまったため、今後は、今回を「アガンベン・メモ(1)」という仕方で、番号を付け替えてメモを再開したい。このメモが中断した理由の一つは、メモの対象である、アガンベン『身体の使用──脱構成的可能態の理論のために』(みすず書房)が、かなり大部の文献であり、最後まで行き着けるかについて不安があったためである。今回再開するにあたり、最後まで完了することをめざして、しかし、ゆっくり進みたいと考えている。
 気長にお付き合いいただきたい。

前回(3月6日)は、「第一部 身体の使用」の「1 働きを欠いた人間」の「1・1」と「1・2」について、メモを記した。とすれば、今回は、「1・3」。

第一部 身体の使用
1 働きを欠いた人間
1・3


ここでの議論は、「1・2」における、エルゴン(働いていること)とクレーシス(使用)とが、魂と身体にそれぞれ関わるものとして、対置されていたことに続いて(奴隷の「身体の使用」についてのアリストテレス)、エネルゲイアとクレーシスとの関わり、つまり、存在論のキーワードという点における、後者の前者による置換が、論じられる。

スロチケルの研究によれば、「アリストテレスにおけるデュナミス(dynamis)とエネルゲイア(energeia)との古典的な対置は当初デュナミスとクレーシスとの対置という形態をとっていたこと」

つまり、
「日常的に用いられていたクレーシスに、エネルゲイアという、プラトンには知られていなかった、彼の発明による術語をとって変えたのではないか」ということである。
「「使用」がたんに存在論的な含意だけではなく、倫理的な含意を有していること」

しかし、エネルゲイアとクレーシスとは、
「二つの術語は単純に同義というわけでなく、しばしば、まるで相互に補完しあう関係にあっるとでもいうかのように並置されている。」
「幸福の定義において、現勢化=実現されることと使用されること、存在論的展望と倫理的展望とは、相互に補完しあっているのだ。」

たしかなことは、「アリストテレスが存在論のキータームとして「クレーシス」という術語を放棄して「エネルゲイア」のほうを選択したことが、西欧哲学が存在を思考してきたさいの様式をなんらかの仕方で規定してきたということである。」

 クレーシスとは、ウェーバーがルターのドイツ語訳聖書において、ディアテーケーと合わせて、ベルーフと翻訳されたことを指摘した、あのクレーシスであり、また、パウロのローマ書の冒頭で、「クレートス」(呼び寄せられた、招かれた、召された・・・)という形容詞形で用いられているものである。聖書的文脈では、これはエクレシアとも結びつき、重要な役割を果たしている。
 アガンベンは、『パウロ講義 残りの時』(岩波書店)で、この点について、かなり詳細に論じている。
プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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