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アガンベン・メモ(b11)

1・10
今回は、「ト・ティ・エーン・エイナイ」についての文法的な議論です。

「文法的構造の分析」「尋常でない文法的構造」
「クルト・アルペ」「「ト・ティ・エーン・エイナイ」の意味を把握するためにはその定位を二つの与格をもって補完してみる必要があるという。純粋の与格と述語的与格である。」
「アリストテレスは通常、本質を述語するさいにそれを述語的与格によって表現している。」「"to soi einai"(「きみであること」定義どおりには「きみに存在を与えること」)」
「この特定の人間の人間であることについて語っているのだから、その定式のなかに純粋のあるいは具体的な与格を挿入する必要がある。《このことによって》とアルペは書いている、《ト・ティ・エーン・エイナイという問いの文法的構造が明確にされる。それは、理解されるためには、純粋な与格と同化によって産み出される述語的与格をつうじて補完されることを要求しているのである。ト(to)という冠詞を前に置くことよって、その定式は問いへの答えという意味を獲得する》と」

「「ト・ティ・エーン・エイナイ」は(人間の場合には)「X(ソクラテス)にとって存在する(ソクラテス、エマ)とはなんであったかということ」を意味している。その定式は、ある特定の存在者のウーシアを、「この特定の存在にとって存在するとはなにであるか」という問いを「その特定の存在者にとって存在するとはなんであったかということ」という答えに変換することによって表現しているのである。」

注:「「ト・ティ・エーン・エイナイ」という定式には、「存在するとはなんであったのかということ」と「〈なにであったか〉存在」という二つの翻訳が可能である。その二つとも、なんらかの仕方で維持されねばならない。というのも、その定式は一方から他方へと両者がけっして符合することはできないままに移動していくありさまを正確に表現しているからである。」「《ヒュポケイメノンとト・ティ・エーン・エイナイという二つの術語を使用するさいにそこに込められている二つの意味が名指されている》」
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アガンベン・メモ(b10)

1・9
「ト・ティ・エーン・エイナイ」の導入は、アリストテレス存在論のアポリアあるいは核心点に関わっている。ここで、アガンベンは、ハイデガーの弟子の一人、ルードルフ・ベームの分析を参照する。

「アリストテレスが「ト・ティ・エーン・エイナイ」という概念を導入するのは、まさに《根底に横たわっているもの》の第一位性に含まれるもろもろのアポリアに答えるため」
「存在の基体的規定はウーシアをそれ自体においてではなく、なにか別のものがウーシアを〈自分の下および根底にある〉ものとして要求し要請するかぎりにおいて思考している。」
「基体の第一位性は、ウーシアにかんする問いが意味をもつのはウーシアが別のものへの関係として、つまり《なにものかがなにものかとして述語されるのはなにをつうじてであるか》という形態において分節されるかぎりにおいてであるという主張と連携した間柄である。」

 これは(「もし存在が《根底に横たわっているもの》から出発して思考されるなら」)、
「存在のうちに根本的な分離を導き入れる。」
「現実に存在しない本質と本質をもたらい現実存在」
「《本質(Wesen)と存在(Sein)とは、それぞれが相手を外に放り出し、このようにして、言葉の二重の意味において、互いに破壊しあう、他方との関係を絶ち、そのことによっていずれもが粉々に砕けてしまうのである》(Boehm R,. p.169)」

「「ト・ティ・エーン・エイナイ」の概念をつうじて、アリストテレスは現実存在と本質、第一実体の現実存在的あり方と第二実体の述語的あり方との統一性と同一性を思考しようと努めるのだが、ただし、それを究極的には〈根底に横たわっている〉基体が接近不可能なものになり、本質がなにか現実に存在しないものとして立ち現われるような仕方でこころみるのである。」
「「ト・ティ・エーン・エイナイ」は存在と現実存在の還元不可能な対立(Widerspiel)を表現している」

 キリスト教思想では、この問題が、創造(被造性)と罪という仕方で語られた問いと結びつけられることになる。根底は、神との関わりが問題化し、それは西洋的思惟のなかで問題として繰り返される。

アガンベン・メモ(b9)

1・8
 ウーシアをめぐる議論。「ト・ティ・エーン・エイナイ」という規定へ。 「ト・ティ・エーン・エイナイ」と聞くと、山田先生の講義を思い出す。

「第一の基体がまずもっては」「ウーシアでるようにおもわれる」、しかし、「それでは不十分である。」
「ただこのように定義しただけではいけない。なぜなら、これだけでは十分ではないからである。・・・これでは質料がウーシアであるということになってしまいかねないのだ。」

「この瞬間から存在の基体的規定の第一位性はアリストテレスが「ト・ティ・エーン・エイナイ(to ti en einai)」(中世ラテン語では"quod quid erat esse")と呼ぶウーシアのもうひとつの規定に場を譲ることになる。」

「アリストテレスの存在論を理解するということは、これらウーシアの二つの規定のあいだの関係を正しく位置づけることを意味している。」

 こうして議論は、「ト・ティ・エーン・エイナイ」へ 

アガンベン・メモ(b8)

1・7
 ウーシアのラテン語訳をどう考えるかは、三位一体論をめぐるギリシャ定式とラテン定式とのめじれた関係を理解する鍵となる。

「第一ヒュポケイメノンとしての、言語的述語作用の下および根底に存在する述語不可能な単独体としての「ある」の基体的規定の第一位性が理由となって、西洋哲学の伝統ではウーシアという語はラテン語でスブスタンティア(substantia)と翻訳されることとなるのだった。」

「『カテゴリー論』が特権的ポストを獲得」「ラテン語への翻訳を通じて」
「ボエティウスは、より正確には訳語は「エッセンティア(essentia)」」だろうことを考慮しながらも」「「スブスタンティア(substantia)」という語を使っており、こうした決定的な仕方で西洋存在論の語彙と理解様式を方向づけることとなったのだった。」
「ボエティウスはネストリウスとエウチュケースとに反論した神学的著作のなかでは"ousia"に"essentia"という語を対応させており、"substantia"は"hypostsis"の訳語のために取りおいている」

「存在が下および根底に横たわっているものとして姿を現わすことができるのは、言語的述語作用の観点からのみである。」「第一ヒュポケイメノンとしてのウーシアという基体的規定の第一位性から出発してのみのこと」

アガンベン・メモ(b7)

1・6

 ウーシアについての『カテゴリー論』の議論が続きますが、第一ウーシアと第二ウーシアとの関係は、ここが最も分かりやすい説明になっています。

「ウーシア[実体]の基本的規定の第一位性」
「第一ウーシア」「言語活動のなかでは固有名詞か直示的代名詞によって表現される」
「《最も本来的な意味で、第一にそしてなによりもまず》ウーシアである。というのも、それは基体化の、言語活動における存在の、限界点であり、それを超えてはこはや名づけることも述語することも意味することもできず、ただ指すことができるにすぎないからである。」「このもの(tode ti)」

「第一ウーシアはつねに《アトム[個的で分割不可能なもの]にして数的に一であるもの(atomon kai hen aritmoi)》を明示するからである。これにたいして、第二ウーシア、たとえば「人間」とか「動物」は、《むしろなにかこれこれ様のものを意味する。なぜなら、基体[根底に横たわっているもの]は第一ウーシアのように一つではなく、「人間」にしても「動物」にしても、多くのものどもについて述語されるからである。」
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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