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アガンベン・メモ(a40)

「8 自分のものとして所有することのできないもの」は、ジョルジョ・アガンベン『身体の使用──脱構成的可能態の理論のために』 (みすず書房、2016年(原著、2014年))の「第一部 身体の使用」の最終章であり、第一部は、この「8」と「インテルメッツォⅠ」を残すだけとなる。

8・1
 使用概念が《ホモ・サケル》シリーズの中でどんな位置を占めているのかについて、 『いと高き貧しさ』(すでに本ブログでメモ公開を完了)との関連で説明がなされる。問題設定の確認。

「『いと高き貧しさ』」において、「いかに使用の概念がフランシスコ修道会の戦略のなかで中心的な位置を占めていたか、またいかにまさしくそれの定義とそれを所有から切り離す可能性をめぐって修道会と教皇庁のあいだに決定的な抗争が産み出されたかを明らかにした。」
「フランシスコ修道会の理論家たちは」「もっぱら法律的な論戦のなかにみずからを閉ざしてしまい、法権利にたいしてたんに否定的なかたちではないような使用の定義を提供することに成功できないでいた。」
「フランシスコ会士たちによる貧しさの権利要求は、主体が所有権を放棄する可能性(adbicatio iuris)にもとづいている。彼らが《使用》・・・と呼んでいるものは、この放棄から出発して開かれる次元である。」

「わたしたちの関心のある見方からするなら」、「決定的なのは、放棄の行為──すなわち、最終的には主体の意志──ではなくて、いわば事物の本性そのものに根拠を置いているような使用のとらえ方ではなかただろうか。」

『いと高き貧しさ』の議論が歴史的研究(思想史研究)であるのに対して、本書の議論は、理論的考察を試みているということである。
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アガンベン・メモ(a39)

7・10
このセクションで、「7 生命ある道具と技術」 が締めくくりとなり、全体の議論のまとめがなされます。問題は、奴隷制と技術との連関・対称性でした。

「奴隷と技術を結びつけている組成上の連関」「古代世界の歴史を研究している者たちによってしばしば注意が喚起されてきた。」
「この説明にはかずかずの限界があることについては、アレクサンドル・コイレが明らかにしてきた」、「むしろわたしたちの研究の観点からして決定的なことは、近代の技術と奴隷制のあいだには、両者が共通にめざしている生産上の目的よりもさらに本質的な連関が存在しないかどうか、問うてみることである。」

「生産労働の増進と単純化だけでなく、むしろ、人間を必然性から解き放つことによって、人間がみずからの本来的な次元──ギリシア人の場合には政治的生活、近代人の場合には自然の力・・・──にアクセスするのをたしかなものにすることであるというのも、同様に真実なのだ。」
「奴隷制と機械とのあいだに確認される対称性は、《生命ある道具》という二つの形象のあいだのアナロジーを超えたところに求められる。」「アントポゲネシス」「の最終的達成、人間という生物が十分に人間的存在になること」
「ゾーエーとビオス、ピュシスとノモスとの閾に位置していて、みずからを包摂的排除をつうじて政治的生活を可能にしている、剥き出しの生にかかわる対称性がそれである。」
「奴隷制の古代人にたいする関係は、技術の近代人にたいする関係と同じ位置にある。」「剥き出しの生として、真に人間的な状態に接近することを可能にする閾を守護しているのである(そしてどちらも目的にそぐわないものであることが明らかにされてきた。・・・非人間的であること・・・)。」

「他方、アリストテレスによる奴隷の定義」「人間的な生は全面的に使用の領域において展開される」「という考え方」、「生命ある道具において問題になっていたのは、たんに労働からの解放ということではなく、むしろ、もうひとつの別個の人間的活動ならびに生ける身体とのもうひとつ別個のパラダイムなのであった。」
「この生ける身体との別個の関係については、わたしたちにはそれを指示する名称が欠如しており、目下のところ、「身体の使用」という連辞をつうじて想起させることしかできない。」

「アントロポゲネシスの過程で奴隷に属してきた決定的な意味を奴隷に取り戻してやることが必要になる。奴隷は、一方では、人間的な動物(あるいは動物としての人間)であるが、他方では、生命ある道具(道具としての人間)である。」
「二重の閾を構成」
「それのなかで、動物的な生は人間的な生に移行し、どうようにまた、生命ある存在(人間)が非有機的な存在(道具)に移行する」「その逆も起こる」
「法律的制度としての奴隷制の発明は、生きものおよび身体の使用を生産諸組織のうちに捕捉し、テクノロジー的道具の発達を一時的に遮断することを許容してきた。」
「奴隷制が近代において廃止されたことは、技術、すなわち生命ある道具の可能性を解き放てきたのだった。それと同時に、人間と自然との関係はもはや別の人間によって媒介されることがなくなり、装置によって媒介されるようになったところから、人間は動物と有機的なものから遠ざけられて、道具と非有機的なものに近くなり、ついにはそれ(機械としての人間)とはほぼ同一化してしまう。」「自分の動物性への直接的な関係も失われてしまった」
「労働からの解放を真の意味で自分のものにすることができなくなている。」
「テクノロジー装置の異常肥大が新しい未曾有の奴隷制を産出することで終わってしまったとしても、なんら驚くべきにはあたらないのである。」

 AIの議論は、この連関に位置すると言えるか。

アガンベン・メモ(a38)

7・9
 続く問題は、スコラ哲学における道具因パラダイムが何をもたらしたか(スコラ哲学の終焉期)。
 内容的には、「7・8」の議論の確認。
 
「道具因パラダイムが極端にまで推し進められ」、「道具の本来の働きと主要な行為者の働きとのあいだの必然的な連関が破壊されて、道具は主要な行為者の意図に《服従して》無制限に使いうると主張されるにいたった」

「スアレスの秘跡にかんする論考」「神聖な道具が付け加えるのは自然的な力ではなく、神に服従する力」「自然的完成の限界のかなたにあって働いている」「自然的なつながりに期待されるろことはなにもない」「神聖な道具はこのような限定をもらない」「その力は神徳が無制限であるため、矛盾を含んでいないすべてのものに無関心に作用するのである」

「絶対的な道具性がなんらかの仕方で近大のテクノロジーのパラダイムを構成していると想定してみることは正当なことである。」
「主要な行為者の働きをみずからのうちに体現してきた配備を産出することをめざしており」「それの命ずる指示に「服従する」ことができる」

アガンベン・メモ(a37)

 前回(8/19)は、「7・7」まで、メモを進めてきていました。議論は、秘跡の議論から道具因へ、そして奴隷とのつながりへと展開しました。

7・8
 ここでは、道具因の二重性が、有名な秘跡の二重性、「能産的な業」と「所産的な業」の二つの業、あるいはサクラメントの人効論と事効論の議論へと結びつき、それが機械論へとつながる、という展開になります。

「道具因の二重の性質」「秘跡のうちでの能産的な業(opus operans 道具的行為者、とくに秘跡を執り行う者の活動)と所産的な業(opus operatum 秘跡を執り行う者の状態がどうであれ、欠けることなく実現される、秘跡それ自体の効果)を分ける」。
「司祭はキリストを主要な行為者とする働きの生命ある道具」「彼が信仰と神への愛徳をもっていることが必要でないばかりでなく」「邪悪な意向をもっていたとしてっも、秘跡の有効性が奪われることないのだった」。
「秘跡が働くのは所産的な業によって」であって、「能産的な業によって」ではない。

「トマスは秘跡を《神の道具(instrumanta Dei)》と定義」「秘跡を聖なる技術(technologia sacra)のパラダイムとして考えることを可能にする」。

「秘跡は五世紀もあとになってはじめて実現されることとなる機械論の一種の予言」、「機会は、生命ある道具と夢を具体化することによって、独りで機能する。そしてそれを操縦する者は、現実には、機会それ自体によってまえもって処方されていたもろもろの支持手段に服従する以外のことはしていない」
「秘跡を執り行う者は」「主要な行為者の医師を多かれ少なかれ機械的に履行する以外のことはしていないのである。」
「マルクスが記していたように、結果として職人の仕事の価値低下をもたらし、職人は伝統的な能力を発揮する機会を失って機械の道具に変容してしまったとするなら」
「この理論は、秘跡を執り行う者を生命ある道具に変容されることによって、その者を事実上人格的な参与と道徳的な責任から切り離す。」

 なるほど、議論の広がり、連関が徐々に見えてくる。

アガンベン・メモ(a36)

7・7
 秘跡の議論となると、有名な、事効論と人効論の論争が挙げられる。今回のアガンベンの議論から見ると、両者は「道具」という点では、同じ地平にあることがわかる。興味深い。

「秘跡においては、道具的な原因という性格は物質的性格(水、聖油、等々)だけのものではない。それはなによりもまず秘跡を執り行う者自身にかかわっているのである。司祭はれっきとしてひとのの道具である。」
「司祭は《生命ある道具(instrumentum animatum)》である。」「《生命ある道具》という用語は」「アリストテレスの『政治学』からやっいぇきたものである。そのなかでアリストテレスは奴隷の本性を定義するのに用いていた。そのうえ、ここで司祭を指して言われている「ミニステル(minister)」という語も、元々は「僕」という意味である。」

「秘跡を執り行い者を奴隷──奴隷は法的人格をもたず、その行為の責任は主人の「ペルソナ」に帰せられる──に吸収・同化してしまっているのは完全に意識してのことである。」「《生命ある道具》のパラダイムをつうじて秘跡の司祭職が用語の面だけでなく系譜学的にも奴隷の身分につながっていること」

「道具因と奴隷とのつながりは、さらにいっそう本質的である。そのつながりは《そのエルゴンが身体の使用である人間》という定式そのもののうちに、そしてまた奴隷は《人間でありながら、その自然によって自分自身に属するのではなく他人に属する》者であるという(見てきたように、法律的ではなく存在論的な性格を有する)定義のうちに含意されている。」

《生命ある道具》は、この「7」のタイトルであるが、そもそも「奴隷・僕」とは、アガンベン自身がローマ書講義で述べていたように、パウロのもっとも基本的な自己理解に関わる用語である。
プロフィール

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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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