God-Talkについて

 通常「神学」と翻訳され、キリスト教の固有の学問的営みと考えられる思惟が、実は、古代ギリシャの哲学的伝統に源泉を有するものであり、それがキリスト教的学の名称として定着するには、多くの年月を要したことは、よく知られた事柄である。つまり、キリスト教思想の立場からも、「神学」という名称は決して自明ではないのである。
 こうした思想的な背景と現代の問題状況を中で、英語圏で、しばしば、「God-Talk」という名称が用いられることがある。これは、Theologiaのlogia(ロゴス・学)に対する、「語り」という言語形式が先行し基本的であるとの認識に結び付くものであり、現在、共訳を進めている論集(8月刊行予定)では、「Gottes-Rede」という仕方で、つまり「Rede」という仕方で示された問題意識である。

 「神学」から「神-語り」に戻る場合、そこには、次のような幅が存在することになる。つまり、 「神が語る」から「神に関して語る」までの幅であり、「神の語り」として場合の「の」の幅(主格から対格まで)と言うこともできる。しかし、「Talk」「Rede」では、「神が語る」ことを前提としつつも、基本は、「神について語る」ことに置かれており、これを「神の語りかけ」と訳するのは、明らかな誤訳である。それは、「God-Talk」という用語を普及させた、マッコーリーの次の著作を見れば、明瞭である。

John Macquarrie,
Gog-Talk. An Examination of the Language and Logic of Theology,
The Seabury Press, 1967.

この書では、次のように問題の導入が行われている。
  If we substitute Anglo-Saxon roots for Greek ones, the word 'theology' would seem to be equivalent to 'God-talk'. It is a form of discourse professing to speak about God.・・・
theology is rather a strange kind of language. It is a special form of God-talk, and God-talk itself seems to be different from our everyday discoursing about what is going on in the world.
  Theology is not only strange; it is become problematical in the modern world. (11)
  In the twentieth century, there is a specially pressing demand that theological language should, to to speak, produce its credentials and make clear what it is all about. (32)

 1960年代、マッコーリーの問題意識は、神の死の神学の登場を受けたものであり、そこで取り出されたのが、「God-talk」である。マッコーリーは、ハイデッガーの翻訳者・研究者としての側面を有しており、重要な著作を著しているが、日本では、その紹介は断片的であり、ふさわしい評価がなされていない。これが、God-talkが「神の語りかけ」と訳されしまう背景にあるように思われる。
     

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「脳、こころ、宗教」について

 本ブログでは、「脳、こころ、宗教」という連関における宗教理解を論じてきた。「脳神経科学と宗教研究」「社会脳」というテーマ設定はその典型である。この数回にわたって取り上げてきた文献は、この連関を、具体化する試みへと組み入れることができる。

 5/31:友田明美『子どもの脳を傷つける親たち』
 5/30:唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか──みきわめと対人関係の心理学』
 5/29:マレー・シャナハン 『シンギュラリティ──人工知能から超知能へ』

 脳神経科学から宗教へという問題連関について、「こころ」を挟むことによって具体化できるという見通しはそれほど奇抜な発想ではなく、よくある議論である。しかし、難しいのはその先の見通しであり、本ブログでのこれまでの議論から描けるのは、概略、次のような研究諸分野の配置となる(先の三冊の文献は、この中に含まれる)。

・脳神経科学/人工知能/ロボット工学/認知科学
・社会脳研究/社会心理学
・発達心理学・医療/カウンセリング・精神分析
・現代宗教学/キリスト教倫理

 こうした構想に比較的近い試みと言えるのは、南山宗教文化研究所で行われた、研究プロジェクト「科学・こころ・宗教」(2004年~2006年)である。そろそろ、体制を整えて、再挑戦となるだろうか。こうしたプロジェクトの持続的な展開には、研究組織という実際的な基盤だけでなく、研究分野としては、宗教哲学的思考が必要になる。

キリスト教と仏教との比較に向けて

 宗教的多元性を論じる上で、宗教間の比較(比較宗教)というのは、重要な視点の一つとなる。キリスト教と仏教との比較は、日本の宗教的多元性においては、従来から取り上げられてきたテーマである。
 今回は、仏教的論理としてしばしば指摘される「即」と、聖書的な時間(「時」「時にかなって美しい」「・・の時」)との比較を念頭に、さまざまに考えを進めてみた。あくまでメモの段階である。

 議論のスタートとして、派存在と所有という問題から。
所有は持つこと、占有すること、しかし、それは他者から預かり・委託されたもの、そして他者へと受け継ぐべきもの、典型は真理・知恵
所有は食べること、身体を所有するとは食べること・生きること、しかし、食べることは俗的な行為であり、破壊することでもある、
 東京グールの真理、人間は人間を食べて生きる(文字通りにではなくとも)。
 仕事が真剣な営みであるとき、それは聖という質をもち、俗からの切断を要求する、これは禁制・禁忌という考えの基本。
仕事、聖なる営み、俗からの切断、仕事場では食べない
食べることは、俗であり、罪でもある

 しかし、この思考を進めれば、聖と俗は「即」で繋がる、聖に固執することは聖にふさわしくない、所有は預かること、知識の獲得は預かることにほかならない。それは時の中で一時自分が大切に所有するべきものではあるが、いずれ受け継ぐべきもの、こn真剣さは、即遊びでもある。苦は楽でもある。同は異でもある。

 「即」とは。Aと非Aの対立を超えること(いずれをも絶対化しないこと、真剣であり遊びであること)。しかし、「A即非A」=Bは、さらにBと非Bとの「B即非B」となり、このプロセスは停止することがない(ナーガールジュナとその展開形)。これは所有であり非所有である。存在するとは所有である。生きるとは食べることである。この論理は仏教的(おそらくは)。

 しかし、このプロセスにも固執すべきではない。より高次へという尽きることなき営みは停止と「即」になる、到達したところにしたがって進めばよい(これはパウロ)。このプロセスが「生」であれば、停止とは「死」である。生即死。真理は完全に到達し完全に所有できなくとも、今ここで触れている仕方で終わってもよい。それは先の他者から受け継ぎ次の他者に手渡すべきものであり、わたしは、それを一時所有していただけ。

 このように、さまざまな問題は互いに連関し循環していることがわかる。
 これはひらめきか、悟りか、照明か。

宗教哲学構想、現時点で

 京都大学における特殊講義では、2年ほど前から「キリスト教思想と宗教哲学」というテーマを論じてきているが、これはキリスト教思想の観点から宗教哲学を構想するということであり、わたくしの定年までの研究テーマとして設定されたものである(定年までで完了できるという意味ではないが)。今年度で構想としては完成する予定であるが、すでにいくつかはっきりしている点があるので、それをメモしておきたい。

・宗教哲学は宗教研究の基礎論である。宗教学の学的反省という点は、宗教哲学の課題と言うべきである。
・宗教研究の基礎論は、宗教の概念規定、宗教批判への応答、宗教的多元性という三つの基本的問いを中心にする。
・三つの基本的問いを展開するために、人間学、自然哲学という伝統的な哲学的問題領域を新たに論じる必要がある。
  これまでのところ、シュライアマハー、ティリッヒ、ヒック、波多野の思索は、参照可能なものとして位置づけられている。
・新たに論じる上で、現代思想・現代科学は最低視野に入れられねばならない。
・キリスト教思想の観点からとしては、これまでの宗教哲学の中で、英語圏の伝統が一つのモデルとなる。
・現代神学の動向として、「解放の神学」系と「科学技術の神学」系が具体的な議論として組み込まれる。
・日本・東アジアの宗教文化・歴史的状況が、この宗教哲学構想の文脈として自覚的に位置づけられるが、日本・東アジアの宗教文化が、いかなる意味で宗教哲学的問いとなるかが問題である。一つの見通しは、先の三つの基本的問いを論じる上で、この文脈が問題化することである。たとえば、宗教概念については、日本・東アジアの宗教文化に適用可能な概念規定がなされねばならない。西欧近代のキリスト教的宗教概念は再検討を要する。

 以上の論点のかなりのものは、すでに長年取り組んできており、最低限の準備は整ってきている。もちろん、練り直し、修正、追加は随所において必要なる。

宗教と死、そして夢

 宗教にとって死は常に近くに位置する問いであり、人類は、宗教という視点から死に接してきた。喪の作業は、優れて宗教的事柄である(狭義の宗教には限らないが)。そして、この喪の作業と夢とは、さまざまな関わりにあることを、人類は経験的に知っている、感じてきたのではないだろうか。親しい人、家族の死に直面して、その死を受け止める中で、死者の夢を見る、これは多くの人が体験することと思われる。「死=無化」という単純な等式では捉えられない、ここに人間が生きる意味世界の実相がある。

 今回、このようなメモを掲載したのは、いずれ、この大問題(去らない死者、繰り返し訪れる死者)に取り組むための、記憶のためのメモということではあるが、実は、昨日驚きのニュースに接したことが本日、死についてのメモを記した理由である。
 学生時代からのまさに親しい友人であったW君。デモや集会、学習会、からさまざまな研究会まで、共に学び歩んできた尊敬すべき畏友であったW君。最近は病気との闘いで、京都を去り、故郷に戻っていた。
 その彼に送ったメールに次のような一節がある。これは、今日のブログの内容にも関わっているので、そのまま紹介したい。

「さて、魂ですが、わたくしも、さまざまなことを考えることがあります。死んで10年以上も父親について夢に見ることがありますが、それは単なる脳に記憶された情報の加工というだけではなく、死者との繋がりとでも言うべき事態ではないかとか、考えたりもします。これも、魂に関わるのかもしれません。実際、キリスト教信仰において、魂は身体と共に復活において重要な意味をもっており、こうした点をめぐって、神学者と科学者の共同の議論が進められつつあります(最近、日本キリスト教団出版局から訳が出た『死者の復活』という論集です。分厚く高いのが難点ですが、書評をする関係で読んでみたところ、なかなか興味深い議論が見られました)。 魂は不思議だという点は、同感です。」

 W君との関わりが魂のレベルでの繋がりであったかは、現時点では定かではない。しかし、「死が終わりではない」は単なるレトリックではないことは、確かである。夢でW君に会えるだろうか。(本日は、彼の葬儀。わたくしは、仕事で出席できないが、彼は許してくれるだろうか。)
プロフィール

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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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