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不死と復活、そして天国

 宗教においては、死後が顕わにテーマになることが少なくない。本来、キリスト教においても、そのような事情であった。こうした問題が学問的神学あるいはキリスト教思想において周辺的な扱いを受けるようになったのは、いつ頃からで、それはどのように理解できるだろうか(これ自体が研究テーマとなる)。
 現代の脳科学などの進展は、こうした問いに対して、次のような論点を付け加えつつある。脳が人間の意識・心、さらには魂の重要な場であるすれば、たとえば、脳の記憶を完全にコピーし、身体が死を迎えたあとに、別の身体(あるいはハードディスクなど)に移し替えることによって、人間は不死性を獲得できるということは可能か、という論点である。つまり、全能エミュレーションとサイバネティックス的不死という問題である。
 キリスト教思想では、古代において、魂の不死と身体の復活という二つの理論がぶつかり合い、あるいは、並存する仕方で展開していた(聖書時代からキリスト教の初期においては、基本は、身体の復活であったというのが、有力な説である)。この問題状況を改めて、上に述べた脳科学の論点と結びつけるならば、魂の不死とサイバネティックス的不死とは、論理構造が同一であることがわかる。両者はともに、身体と魂(あるいは記憶)が分離可能であり(つまり、別々の実体であり)、魂(記憶)はそれ自体で存続できるという論点における一致する。ここから、身体から切り離された魂や記憶を必要に応じて別の媒体に移すことができるという推論も可能になる(魂の輪廻転生)。
 問題は、魂や記憶が以上の意味で実体化できるかであり、また、記憶だけで魂を構成できるかも問題になる。しかし、人間は別にして、ロボットであれば、メモリーカードを差し替えるころで、不死とでも言える状態を生じることは可能であり、もしロボットが心をもちうるとすれば(これも問題であるが)、ロボットには復活の必要はなく、まさに生存時間を限りなく延ばすという仕方での不死(メモリーカードの差し替えの不死)が可能であると言える。
 ロボットと人間の差異は、身体の復活の有意味性から論じることができるかもしれない。

 今回は、天国まで話が展開できなかったが(天国と神の記憶といった議論)、SF的な思考実験は、キリスト教思想から見ても、おもしろい(かもしれない)という点で、少し問題を立ててみた。最近見た、アニメ作品からのインスピレーションである。
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新しい研究テーマの準備向けて

 研究を続けていると、自分の内発的な動機以外に、さまざまな関連から新しい研究テーマに取り組むことになることがある。最近で言えば、キリシタンあるいは殉教というテーマがそれであるが、それとは別に、「移住と伝播――アジア太平洋地域におけるキリスト教関連資料、およびその活用」というテーマにおける共同研究に関わることになった。共同研究に参加するに当たり、自分の分担・担当のテーマが問題になる。今回は、まだ試行錯誤の段階であるが、アジア・太平洋・移民・文化といった点から、考えをまとめつつある。この過程で、入手した文献について、いかに紹介したい。

沖田行司編
『ハワイ日系社会の文化とその変容──一九二〇年代のマウイ島の事例』
ナカニシヤ出版、1998年。

序文
第一部 日本人意味の教育文化
 第一章 沖田行司 (沖田行司)
 第二章 日系人の団体活動 (国生寿)
 第三章 『馬哇新聞』に見る日本語学校の行事と教科書  (金子邦秀)
 補講 香蘭女塾の神田重英 (飯田耕二郎)

第二部 日系二世問題と文化変容
 第四章 ハワイの二世
       ──一九二〇年代 (フランクリン・王堂/宮地ひとみ訳)
 第五章 マウイの日系二世の教育と言語環境
       ──オーラル・ヒストリーの分析をもとにした心理学的アプローチ
       (井上智義)
 第六章 日系市民と米化 (藤原孝章) 
 補論 マウイ島の高校と日系人 (鈴木敏昭)

第三部 日系人社会の構造
 第七章 アメリカ市民教育とマウイ精神 (吉田亮)
 第八章 日系社会とセツルメント運動 (黒木保博)
 第九章 マウイ島における日本人の居住地と出身地・職業構成
      (飯田耕二郎)
 第十章 マウイ島における砂糖キビプランテーションとエスニック構造
      (久武哲也)

マウイ日系社会関連年表(一九一九─一九四一年)
   ──一九二〇年代を中心に
事項索引
人名索引

 本論集の編者には、以前、2年間ほど仕事をご一緒したことがあり、その際の記憶でたどり着いたのが、この文献である。

研究と教育

 大学で、研究と教育の仕事をしていて感じるのは、この研究と仕事との関係である。両者の関係は微妙であり、当然、両者は無関係ではなく、相互に関連し合っている。キリスト教学の専門研究者であるから、キリスト教学の教育を担当するのであり、またその逆も言える。しかし、研究と教育の具体的な中身に目を向けると、両者のずれが明瞭になる。なぜなら、大学での教育の担当者は、しばしばその科目の厳密な専門家が行うとはかぎらず、また大学によっては、自分の専門研究に関わる内容の授業をほとんど担当できないケースも見られる。
 わたくしの場合は、京都大学に赴任以降は、この点で、かなり理想的な状況で研究を進めることができた。教育と研究とがおおよそずれることなく関連付けることができたからである。講義内容を論文化する、論文で書いたことを講義でも話す、これはよくあることであり、議論を深めるのにきわめて有益である(聴く側の学生にとってどうかとは思われるが)。

 現在、京都大学では、二つの特殊講義を講義しているが、そのうち一方は、京都大学赴任以来継続して行っているもので、研究と教育の重なりがもっともはっきり現れているものである。2019年度から3年間の講義計画は、そのまま研究計画としても、読み替え可能なものであり、現時点では、次のように構想されている。イーワードのみを示せば、次のようになる。

・2019年度
     前期:言語・テキスト・解釈
     後期:脳・心・人間・倫理
・2020年度
     前期:イエス/パウロ
     後期:生命・自然の形而上学(自然哲学)
・2021年度
     前期:イデオロギー/ユートピア(社会的構想力)
     後期:都市・文明・環境

 これは、京都大学で行ってきた特殊講義のまとめであり、わたくしも、そろそろこうしたことを意識する時期を迎えている。

都市の神学、あるいは神学的文明論

 最近、「科学技術の神学」系について、集中的に研究を行ってきているが、その関連で、科学技術の問いが、文明論を必要とすること、そして文明論には、都市をめぐる議論が必要であることが明らかになってきた。これは、キリスト教が都市の宗教という特性を有することから判断しても、今後、追求すべき問題である。
 こうした中で、さまざまな先行研究が思い浮かんでくるが、たとえば、技術論(『機械の神話──技術と人類の発達』河出書房新社)でも有名なルイス・マンフォードである。

Lewis Mumford,
The City in History,
Pelican Book, 1961.

Preface
Acknowledgements

1. Sanctuary, Village, and Stronghold
2. The Crystallization of the City
3. Ancestral Forms and Patterns
4. The Nature of the Ancient City
5. Emergence of the Polis
6. Citizen Versus Ideal City
7. Hellenistic Absolutism and Urbanity
8. Megalopolis into Necroplis
9. Cloister and Community
10. Medieval Urban Housekeeping
11. Medieval Disruptions, Modern Anticipations
12. The Structure of Baroque Power
13. Court, Parade, and Capital
14. Commercial Expansion and Urban Dissolution
15. Palaeotechnis Paradise: Coketown
16. Suburbia -- and Beyond
17. The Myth of Megalopolis
18. Retrospect and Prospect

Bibliography
Index

 文献表や索引を除いても、650頁あまりのボリュームであり、魅力的な著作である。

キリスト教の未来、国民国家の彼方?

 新年を迎え、キリスト教の未来について、考えてみた。といっても、何か新しい考えをまとめたというよりも、これまでのいくつかの議論を確認したという程度である。
 キリスト教はその初期の段階より、世界宗教へと進む方向性を有しており、それはその後の歴史の中でさまざまな問題を生じつつ、現在に至っており、キリスト教を総体で見たときに、世界宗教であることは事実上、認めることが可能である。ただし、その一方で、世界宗教としてのキリスト教が近代の国民国家の枠組みにおいて存立しており、この国民国家の体制が揺らぎを生じていることは否定できない。したがって、キリスト教の未来(あるいは近未来)が、この国民国家体制の動向に関連せざるを得ないことは、疑いもない。

 さて、この国民国家は物語論の視点から見るならば、その存立と統合の基盤を「物語」の共有に負っていることがわかる。物語に基盤を持つこと自体は、国民国家にかぎらず、多くの国家(共同性)にもみられ、その原型がいわゆる「起源神話」であることは言うまでもない。最近出てきている議論では、国民国家が外部から移民を受け入れる場合に、その限界線が存在するのではないかというkとおである。たとえば、15%である。この限界線を越えようとするとき、そこに大きな問題が生じる。一方における排他主義と他方における国民国家の、あるいは国民の多元性の承認である。校者は新たな物語の創出を伴わない限り、不安定性が増大し、特に民主的国家では、最悪の場合、国家的秩序の解体が生じる。

 問題は、この国民国家の彼方、その次に来たるべきものを人類が構想できるかである。より実質的な国家連合か、あるいは地域的な国家ブロックの連携体(いわゆる多極化)か、あるいは世界国家か。
 世界宗教としてのキリスト教の未来は、こうした国民国家の彼方を構想する作業と緊密に結び付かざるを得ない、というのが、さしあたりの結論である。
 しかし、その一方で、国民国家の解体が多くの難民を生み出すという悲劇が存在し、それについても、現実的対応が迫られている。
プロフィール

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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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