最近のメモから

 久しぶりに、わたくし自身の記憶のために、メモを掲載します。

1.「霊」とはいかなる、リアリティか。
 「霊」は、きわめて、捉えにくい、表現しにくい、伝達困難な存在である。聖霊論が困難であることの一因はここにある。さしあたり、霊は、「物体」「物質」ではない、これらと対照的であると述べることは可能であろう。しかし、「モノ」との関係はより複雑であり、人類は古くは、霊といわば「物質的」なイメージで捉えていた、つまり、霊の理解は、「モノ」的であったことに、注目することが霊を論じる上で不可欠である。古くは、霊的なもの、愛、恩恵、そして罪は、すべて「モノ」的であり、これは、次第に内面化され、精神化され、近代・現代に至っていると言える。しかし、「モノ」のイメージは頑強に持続している。
 たとえば、民数記11.10-25の部分は、この点で興味深い。特に、25節「主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった」である。
 ここで語られる「霊」の分割は、霊がモノ的であると考えるとわかりやすく、日本の神々においても、同様の事象はいくらでも見出すことが可能である。
 以上とともに、霊の性格で重要になるのは、霊は「個別性」(個々の人間に応じて)に関わることである。霊の個別性に基づく霊の多様性は、役割・機能の多様性とそれらの統一性という仕方で展開すると、「教会」の霊性としてイメージできるようになる。
 問題は、この霊的多様性の一致(霊的一致、一つの霊)をどのようにモデル化するかである。一つは、ヒエラルキー、もう一つは、機能的区別を含む平等性(万人司祭)であり、どちらのモデルも、キリスト教の歴史を貫いて存在する。

2.歴史の表層と深層、あるいは多層。
 歴史は、しばしば多層的な仕方での理解を要求する。自然のプロセスから個人の内的で実存的なプロセスまで、この中に歴史は位置している。したがて、歴史理解には、表層と深層という区別が必要になる。キリスト教的には、これらにくわえて、神の経綸・予定・摂理といった事柄が問題になり、神に関しても、内在的と経綸的のいわば多層(永遠と時間との間)が問題となり、議論はきわめて複雑になる。
 こうした問題を考える上で、やや忘れられた感があるが、再読したいと思うのが、次の文献である。

Carl Michalson,
The Hinge of History. An Existential Approach to the Christian Faith,
Charles Schribner's Sons, 1959.

 この文献には、野呂芳男、小田垣雅也の共訳が存在するが、こちらも、すでに半世紀前の訳になってしまった。
 1950年代から60年代にかけての「実存」をキーワードにした多くの思索は、今後、どのような扱いなるのだろうか。流行を追求するのに忙しいキリスト教思想では、現時点では、忘却されつつある。
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今年の研究テーマ2

 昨日は、今年の研究テーマとして、「日本・アジアのキリスト教研究」の方法論的諸問題を挙げたが、より具体的には、文献研究と社会科学的研究の関連付け、ということが問題になる。文化人類学的な研究では、社会調査やフィールド調査と文献研究との統合は、かなり以前から当然のこととして行われてきたが、おそらく、日本のキリスト教研究では、まだこのように研究方法については、十分な方法論的な検討がなされないままにいわば勘で研究がなされていたのではないだろうか。
 
 しかし、この研究状況を超えることが今後の日本・アジアのキリスト教研究には求められねばならない。日本の研究者にとって、日本やアジアはいわば研究現場そのものであって、研究においてその利点を十分に生かすことは当然のこととであろう。こうした問題意識は、かなりの期間、不十分ながら、日本、韓国、中国でフィールド調査を行う中で実感されたことである。
 幸い、社会調査などについては、多くの文献が出版されており、参照できるものは少なくない(社会調査士が資格として一定適度定着していることによる)。たとえば、わたくしの手元にも、いくつかの入門的なものがある。

・宝月誠ほか 『社会調査』 有斐閣。
・前田拓也ほか 『最強の社会調査──これから質的調査をはじめる人のために』 ナカニシヤ出版。
・岸政彦ほか  『質的社会調査の方法──他者の合理性の理解社会学』 有斐閣。

 また、宗教研究で、こうした方法論をもちいた研究も少なくない。たとえば、
・飯田剛史 『在日コリアンの宗教と祭り──民族と宗教の社会学』 世界思想社。 

 さらに、さまざまな公的なデータ(宗教意識に関わる統計など)あるいはジャーナリズムによるドキュメントなど、日本・アジアのキリスト教研究との関連で使えるものはかなりものとなる。問題は、それらを研究の中で関連付け、分析・解釈することであり、それには方法論が必要である。そして、方法論は文献資料に求められねばならない。

今年の研究テーマ1

 今年の研究テーマにもさまざまあるが(宗教哲学、現代神学などはもちろん)、その中に、日本・アジアのキリスト教研究が存在する。これに関しては、思想研究という点では、昨年、 『近代日本とキリスト教思想の可能性──二つの地平の交わるところ』 (三恵社)をまとめることができた。しかし、これにはいくつかの続編が続くことになる。
 一つは、この著書で提示した方法論にしたがって、その具体的な適用として、無教会キリスト教(内村、矢内原、南原)を論じた諸論考をまとめることであり、もう一つは、思想研究の基盤となる、キリスト教研究の方法論的諸問題について、やはりこれまでの諸論考を整理することである。いずれも、すでに刊行ずみの論文をまとめることになるので、素材は基本的に揃っており、あとは、まとめるための時間の問題である(これが以外に時間を要する)。
 しかし、後者の「キリスト教研究の方法論的諸問題」については、つめの作業(一つ論文を追加することになる)が残っており、これがこの数ヶ月の作業となり、それが形になることを前提に、来年度の前半には、刊行にこぎ着ける、というのが、現時点でのスケジュールとなる。
 
 これとの関連で、今月21日に予定「東アジアキリスト教交流史研究会」での講演は、当初は、これまでの仕事のまとめ・紹介的なものと考えていたが、新しい議論を組み込むことになりそうであり、現在、考え中である。思想研究では思想独自の特性が問題になるが、東アジア・キリスト教史研究では、従来の歴史学的方法に加えて、社会科学的人類学的な手法が必要になる。考えるべきことは少なくないが、その手掛かりは、隣接の研究分野に見いだすことが可能である。

パウロを読む

 京都大学の演習で、パウロを読むようになって5年目の授業があと残りわずかになりました(1月に2回)。ローマの信徒への手紙を連続して読み始め、今年で4章が完了しました。これで信仰義認論は内容的に確認されたことになります。

 さて、パウロと言えば、現代も新たな読み直しがなされている思想家ですが、従来から、いつくかの難問(?)がありました。その典型は、たとえば、次の言葉です。

「ローマ書13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」

 この言葉をめぐる解釈・論争の歴史については、宮田光雄 『国家と宗教』 (岩波書店)をご覧ください。
 パウロにかぎらず、本来その言葉が置かれていたコンテクストから切り離して解釈を行おうとするとき、しばしば人為的で擬似的な難問が生じることがあります。このパウロの言葉は、その典型と考えるべきです。問題の言葉をどのような文脈に位置づけるかによって、解釈者の力量が試されるとも言えるでしょう。

 わたくしの最近の考えは、この言葉はバルトが言うように直前の12章の文脈が受容であるとともに、パウロの終末論ち関わる倫理的な勧めとも言える、たとえば、次の言葉との連関で読むということです。

「一コリント7:17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。18 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。」

 この聖書の箇所もパウロ思想の難問箇所の一つであるわけですが、こちらは、ローマ書の2章から3章の信仰義認論における、義とみなされるためには、信仰のみ(アブラハムのように)が求められるのであり、割礼も律法も前提ではない、という主張と繋げて読むと意味の理解は十分可能です。
 割礼の有無は救いの条件ではないとは、人間を分類し分断する既存の区分や身分などが無効であるとの議論、つまり、キリストにおいて、ユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由な身分も、男も女も、一つである、その区別は乗り越えられたとの議論であり、これに、この一つであることがキリスト教共同体を超えて「この世」で現実化する終末が切迫していることを加えれば、当然、「兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」との勧めになります。

 これを、世俗的な上に立つ権威に適用したのが、先のローマ書13章1節の言葉であると考えれば、それがどんな意味かは十分に了解可能となるはずです。こうした諸前提抜きに、この言葉を読もうとするかは、議論がおかしくなると言うことでしょう。

 ジジェクのパウロ論は、以上の議論の論点を、特殊と普遍という古典的な問題において論じたものと解することができると思われます。キリスト教共同体内部での生起した特殊な「一性」の議論が、実は、普遍的意味を有しているということ。特殊に媒介できない普遍は、十分な意味での普遍ではない、ということなるでしょう。

 以上は、前回と同様の時期の、早朝の思索です。

贖い論・考

 贖い、復活、これらは、キリスト教の基本的な思想に属するものである。しかし、同時に、その意味内容の理解は、特に現代人にとって、決して容易ではない。本ブログでは、これまでこれらに関して、若干の「研究メモ」を掲載してきた。今回は、「贖い」について、一つの考察を行いたい。

 そもそも、ある人が他者の罪を贖うというのは、いかなる意味で可能なのだろうか。近代的な罪・罰の思考からは説明困難な問題がここにある。だれかの罪を代わって背負うことは、原理的に可能なのか、また「背負う」とはいかなる事態なのか。疑問は尽きない。しかし、これらの難問に答えることは今回の意図ではない。
 ここで参照したいのは、旧約聖書のアブラハム物語の中にあるソドムとゴモラをめぐるアブラハムと天使・主とのやりとりである。

主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。21 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」22 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。23 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。25 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」26 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」27 アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。28 もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」29 アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」30 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」31 アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」32 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」33 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
(創世記18:20-33)

 10人の正しい者が、ソドムとゴモラの罪を贖うことができると考えてはどうだろうか。これは、いわば正しい者の作るネットワークに入る人はその罪が贖われるという、と解してはどうだろうか。つまり、罪や救いは個別性の事柄(その本人の問題であり、他者がそれによって代わることはできない)であるだけでなく、共同性の事柄でもあるという議論である。これは、「人格性」が、個別性と関係性の両極性によって成り立つことを根拠としていると考えてもよい。
 
 もし、以上のように考えることが可能ならば、イエスの十字架によって人類の罪が贖われた、とは、次のように意味に解釈できることになる。イエスを起点に張り巡らされた救済のネットワークは人類を包括する、と。イエスが支えるネットワーク、これが贖いの意味ではないだろうか。まさに、このネットワークは奇蹟的な贖いを引き起こすことになる。
 とすれば、この救いの共同性は、「神の国」を指し示す共に、それが成立するのは、「この世」において、ということになる。おそらく、「この世」の意味は、このように解すべきものなのだろう。

 以上は、ある日(数ヶ月前?)の早朝に考えたことである。
プロフィール

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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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