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新しい研究テーマの準備向けて

 研究を続けていると、自分の内発的な動機以外に、さまざまな関連から新しい研究テーマに取り組むことになることがある。最近で言えば、キリシタンあるいは殉教というテーマがそれであるが、それとは別に、「移住と伝播――アジア太平洋地域におけるキリスト教関連資料、およびその活用」というテーマにおける共同研究に関わることになった。共同研究に参加するに当たり、自分の分担・担当のテーマが問題になる。今回は、まだ試行錯誤の段階であるが、アジア・太平洋・移民・文化といった点から、考えをまとめつつある。この過程で、入手した文献について、いかに紹介したい。

沖田行司編
『ハワイ日系社会の文化とその変容──一九二〇年代のマウイ島の事例』
ナカニシヤ出版、1998年。

序文
第一部 日本人意味の教育文化
 第一章 沖田行司 (沖田行司)
 第二章 日系人の団体活動 (国生寿)
 第三章 『馬哇新聞』に見る日本語学校の行事と教科書  (金子邦秀)
 補講 香蘭女塾の神田重英 (飯田耕二郎)

第二部 日系二世問題と文化変容
 第四章 ハワイの二世
       ──一九二〇年代 (フランクリン・王堂/宮地ひとみ訳)
 第五章 マウイの日系二世の教育と言語環境
       ──オーラル・ヒストリーの分析をもとにした心理学的アプローチ
       (井上智義)
 第六章 日系市民と米化 (藤原孝章) 
 補論 マウイ島の高校と日系人 (鈴木敏昭)

第三部 日系人社会の構造
 第七章 アメリカ市民教育とマウイ精神 (吉田亮)
 第八章 日系社会とセツルメント運動 (黒木保博)
 第九章 マウイ島における日本人の居住地と出身地・職業構成
      (飯田耕二郎)
 第十章 マウイ島における砂糖キビプランテーションとエスニック構造
      (久武哲也)

マウイ日系社会関連年表(一九一九─一九四一年)
   ──一九二〇年代を中心に
事項索引
人名索引

 本論集の編者には、以前、2年間ほど仕事をご一緒したことがあり、その際の記憶でたどり着いたのが、この文献である。
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研究と教育

 大学で、研究と教育の仕事をしていて感じるのは、この研究と仕事との関係である。両者の関係は微妙であり、当然、両者は無関係ではなく、相互に関連し合っている。キリスト教学の専門研究者であるから、キリスト教学の教育を担当するのであり、またその逆も言える。しかし、研究と教育の具体的な中身に目を向けると、両者のずれが明瞭になる。なぜなら、大学での教育の担当者は、しばしばその科目の厳密な専門家が行うとはかぎらず、また大学によっては、自分の専門研究に関わる内容の授業をほとんど担当できないケースも見られる。
 わたくしの場合は、京都大学に赴任以降は、この点で、かなり理想的な状況で研究を進めることができた。教育と研究とがおおよそずれることなく関連付けることができたからである。講義内容を論文化する、論文で書いたことを講義でも話す、これはよくあることであり、議論を深めるのにきわめて有益である(聴く側の学生にとってどうかとは思われるが)。

 現在、京都大学では、二つの特殊講義を講義しているが、そのうち一方は、京都大学赴任以来継続して行っているもので、研究と教育の重なりがもっともはっきり現れているものである。2019年度から3年間の講義計画は、そのまま研究計画としても、読み替え可能なものであり、現時点では、次のように構想されている。イーワードのみを示せば、次のようになる。

・2019年度
     前期:言語・テキスト・解釈
     後期:脳・心・人間・倫理
・2020年度
     前期:イエス/パウロ
     後期:生命・自然の形而上学(自然哲学)
・2021年度
     前期:イデオロギー/ユートピア(社会的構想力)
     後期:都市・文明・環境

 これは、京都大学で行ってきた特殊講義のまとめであり、わたくしも、そろそろこうしたことを意識する時期を迎えている。

都市の神学、あるいは神学的文明論

 最近、「科学技術の神学」系について、集中的に研究を行ってきているが、その関連で、科学技術の問いが、文明論を必要とすること、そして文明論には、都市をめぐる議論が必要であることが明らかになってきた。これは、キリスト教が都市の宗教という特性を有することから判断しても、今後、追求すべき問題である。
 こうした中で、さまざまな先行研究が思い浮かんでくるが、たとえば、技術論(『機械の神話──技術と人類の発達』河出書房新社)でも有名なルイス・マンフォードである。

Lewis Mumford,
The City in History,
Pelican Book, 1961.

Preface
Acknowledgements

1. Sanctuary, Village, and Stronghold
2. The Crystallization of the City
3. Ancestral Forms and Patterns
4. The Nature of the Ancient City
5. Emergence of the Polis
6. Citizen Versus Ideal City
7. Hellenistic Absolutism and Urbanity
8. Megalopolis into Necroplis
9. Cloister and Community
10. Medieval Urban Housekeeping
11. Medieval Disruptions, Modern Anticipations
12. The Structure of Baroque Power
13. Court, Parade, and Capital
14. Commercial Expansion and Urban Dissolution
15. Palaeotechnis Paradise: Coketown
16. Suburbia -- and Beyond
17. The Myth of Megalopolis
18. Retrospect and Prospect

Bibliography
Index

 文献表や索引を除いても、650頁あまりのボリュームであり、魅力的な著作である。

キリスト教の未来、国民国家の彼方?

 新年を迎え、キリスト教の未来について、考えてみた。といっても、何か新しい考えをまとめたというよりも、これまでのいくつかの議論を確認したという程度である。
 キリスト教はその初期の段階より、世界宗教へと進む方向性を有しており、それはその後の歴史の中でさまざまな問題を生じつつ、現在に至っており、キリスト教を総体で見たときに、世界宗教であることは事実上、認めることが可能である。ただし、その一方で、世界宗教としてのキリスト教が近代の国民国家の枠組みにおいて存立しており、この国民国家の体制が揺らぎを生じていることは否定できない。したがって、キリスト教の未来(あるいは近未来)が、この国民国家体制の動向に関連せざるを得ないことは、疑いもない。

 さて、この国民国家は物語論の視点から見るならば、その存立と統合の基盤を「物語」の共有に負っていることがわかる。物語に基盤を持つこと自体は、国民国家にかぎらず、多くの国家(共同性)にもみられ、その原型がいわゆる「起源神話」であることは言うまでもない。最近出てきている議論では、国民国家が外部から移民を受け入れる場合に、その限界線が存在するのではないかというkとおである。たとえば、15%である。この限界線を越えようとするとき、そこに大きな問題が生じる。一方における排他主義と他方における国民国家の、あるいは国民の多元性の承認である。校者は新たな物語の創出を伴わない限り、不安定性が増大し、特に民主的国家では、最悪の場合、国家的秩序の解体が生じる。

 問題は、この国民国家の彼方、その次に来たるべきものを人類が構想できるかである。より実質的な国家連合か、あるいは地域的な国家ブロックの連携体(いわゆる多極化)か、あるいは世界国家か。
 世界宗教としてのキリスト教の未来は、こうした国民国家の彼方を構想する作業と緊密に結び付かざるを得ない、というのが、さしあたりの結論である。
 しかし、その一方で、国民国家の解体が多くの難民を生み出すという悲劇が存在し、それについても、現実的対応が迫られている。

神義論をめぐって、研究予定

11月19日に書いた記事が、公開させずに、「下書き」になっていましたので、公開の形にします。

 本ブログでも神義論は繰り返しテーマとされてきたが(特に3・11をめぐって)、これまで考えてきたことを、そろそろ中間的な集約を行う段階にある。現在の構想は次のようになる。

 基本は、神義論を、知恵の問題として考えるというものであり、新約聖書学(クロッサン)において、慣習的知恵と転換的知恵として取り出されたものを枠組みとして、そこに神義論を挟み込む。その場合、神義論は、次のような三段階のプロセスに整理される。

・前提は慣習的知恵である:因果応報を原理として、共同体の道徳的秩序を基礎づける。悪や不幸の問いは、まず、この段階で取り扱われる。社会が安定している場合には、これで多くの問題は処理できる(罪を犯したから罰を受ける)。

・災害や人災で、多くの不幸が現象した場合(神義論1):この段階では、因果応報は自明性を大きく喪失し、悪の問題は慣習的知恵では納得できないことになり、いわゆる神義論が問題化する。

・神義論2:隠された理由の示唆。神の意志・意図は人間には計りがたく神秘に閉ざされているが、現実の悪の背後には、神の意図・計画が存在するとされる。予定調和説。

・神義論3:しかし、悪の現実が極限に達するとき、神義論2は挫折する。この先は、二つの可能性がある。一つは、「神の不在」であり、もう一つは、「超越者の無能」である。後者は、ユングが解釈したヨブ記が典型。

・以上の神義論の三段階の展開は、最終的に、特に、「超越者の無能」をもう一度転倒する仕方で、転換的知恵=革命論へ、到達する、と解してはどうだろうか。しかし、転換した先が、更新された慣習的知恵であると解するとき、議論は、どうなるだろうか。

 以上については、12月5日の特殊講義で議論を展開し、年度末(3月末)には、論文化(『哲学研究』604号)が予定されている。うまくゆくかどうか、やや不安が残るが・・・。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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