波多野宗教哲学(14)

九(310-315)
 先の第八節が、波多野の文化論の骨子・要点であったのに対して言えば、この第九節(そして、続く第十節も)は、文化論のより詳細な展開であり、続く節と共に『時と永遠』の文化的生の議論のいわば難所と言うべき部分である。一定の哲学的知識がないと内容の厳密な理解は困難にも思われる。京都大学キリスト教学演習では、フィヒテの「知識学」との対比における説明を試みたが、受講生の理解はどうだったであろうか。
 しかし、論旨を大づかみに把握することは十分に可能であって、まとめれば以下のようになる。

(1)活動との関わりにおける観想
 前節でも述べられたように、波多野は観想と活動という古代哲学以来の枠組みについて、「活動が文化的動作の一般的性格」であり、「観想も亦一種の活動である」(311)と考える。
 こうした活動と観想との関係については、観想を活動が目指すべき目標と位置づける見解(観想において活動自体が停止するという波多野の論点に重ねて言えば、活動は自らの自己止揚を目的とするということになる)と、観想は活動の極限・極端な形態であり現実の活動はその極限の手前で自然的生の方向へ復帰するという見解が可能であって──これは波多野自身の区別と考えてよい──、 前者は、極端な観念論者や神秘家の立場と言うべきであろう。波多野自身は、後者の文化的生のあり方(後の議論を先取りすれば、客観的時間と無終極性)を文化論の中心に位置づけている。
 この節では活動の固有性について、次のように説明される。「客体界が」「自己性と他者性の二つの契機」「を代表する二つの形態乃至領域に分かれ、それらの間に働きかけるものと働きかけられるものとの関係が成立つ」(311)。
 この波多野の議論は、客体を構成する二つの契機から客体世界の二領域(いわゆる主観客観図式の成立)が構成され、それらの相互関係が相互作用として記述されるということにほかならない(因果律によって結合される科学的世界=客観的世界は文化的生の一つの形態である)。
 しかし、観想を追究する立場は、この二領域化した文化的生に「安住」することができず、他者性の消滅=完全な自己実現をめざす。「主体は活動者たることを止め客体の曇りなく淀みなき透明なる姿に見入りつつ静かに休息する」(311)、「生の舞台より退場する」(312)。

(2)他者性という観点から見た自然と文化(他者論)
 『時と永遠』の議論は、他者論という観点からまとめることが可能と思われるが、ここで、波多野は自然と文化とに関連性の概要を、三種類の他者性を区別することによって、説明する。この途中で議論はかなり複雑になる。
「第一は実在者が実在者に対する他者性」(他者性1)、「第二は客体が主体(実在者)の対するそれ」(他者性2)、「第三は客体相互の間におけるそれ」(他者性3)である(312)。・第一段階(第一歩):他者性1から他者性2への移行。
 「自然的生より文化的生への上昇」は、「第一の実在的他者よりの離脱」であり、「第二第三の他者性の発生」、つまり、他者性1から他者性2への移行ある。これは、「隠れたる中心実在的中心」としての主体によって構成された、客体における「自己性と他者性の二重性」として、すでに論じられた問題である。本節では、この二重性は「客体面において自己性と他者性との愛区別される二つの領域」(313)として現象するが指摘された。
 ここで、波多野は新しい「譬喩的」表現を導入する(それは、「第二歩」を論じるためのものとも言える)。すなわち、「自己性と他者性とは」「いわば表裏相重なる二つの層をなす」「客体面はいかばかり薄くあろうとも、実は厚みがありを奥行きがあり立体的なのである」(313)。先に、自己性と他者性は客体面の二つの領域となることが述べられていたが、ここではむしろ一つの面内部の二領域ではなく、厚みのある薄い立体の表面と裏面という仕方での説明が試みられる──これはフィヒテの知識学の言い方を用いれば、おそらく「可分的自我」「可分的非我」の問題となった事柄である(辻村公一『ドイツ観念論断想I』創文社、特に第二章を参照)──。いずれにおいても問題となるのは、この二領域あるいは二面の間には相互作用・動性が存在するという点であり、これが文化的生が基本的に「活動」であるといわれる理由であった。
・第二段階(「第二歩」):他者性2の他者性3への分節。
 この客体世界の相互作用・動性は、「この裏面が表面へ浮かび出で」(=隠れたる中心としての主体の自己実現の徹底)、「両契機がともに表面化し客体面における二つの領域として顕わになり、他者性は客体内容同志の間における連関となる」(313)という仕方で展開し、これが「第二歩」と言われるものである(波多野は突然「第二歩」という言い方を行っているが、それに先行すべき「第一歩」という表現は見当たらない)。「裏面が表面に進出しようともがくことによって、穏やかなる滑らかなる平面的存在が持続し得ず、彎曲を見動揺を来す」、これが「活動」であって、それは、客体面上に、客体相互の連関が意味連関として生成するということにほかならない(意味連階についてもすでに議論がなされていた)。
 この活動に対して、「観想」は「客体面の凹凸を矯正して純然たる平面をに還元すること」を目指す(313)。この目標が達成されるのは「他者性の克服」(314)がなされ活動が休止するときであり、このときに、「主体は、自己を表現し尽くし残る隈な顕わとなることによって、全く客体のうちに融け込み」、「客体は他者であることを止めて全く主体の所有に帰入し」、「かくて両者は完全き合一が成就される」(314)。
 波多野は、この「自己を徹底させることによって自己の破壊を企てる」立場を、「神秘主義」と捉え、それは「他者の無き主体は死するより外はない」(314)と主張する。

(3)文化的生の時間性としての「歴史」
 この節は、文化的生についての以上の議論が「歴史」となることが示唆され、「歴史的時間」という問題が提示されてことによって閉じられる。しかし、この歴史的時間あるいは歴史的生について期待される仕方での議論は、『時と永遠』では必ずしも展開されることなく終わっている。それは、波多野が「宗教的生」と永遠の議論に思索を集中する方向で論を進めるからであり、波多野の歴史論は、別の文献から再構成することが必要になるのである。その一つの試みを、大林浩『アガペーと歴史的精神』日本基督教団出版局、1981年に、に見ることができるかもしれない。
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