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ジジェク(2c)

 ジジェクの議論はますますおもしろくなる。さて、どこで、宗教・キリスト教と議論は結びつくことになるのか、明示的にはまだまだ先。

3.〈対象a〉としてのコーク
・「余剰価値の資本主義力学と余剰享楽のリビドー力学」
・「あらゆる直接的な使用価値を超越しているがゆえに、コークは「それ」の直接的な具現として機能するのである。つまり、通常の満足を超えた享楽の純然たるヵ条の具現」(36)「Xの具現」(37)
・この過剰な性質によって、われわれのコークへの角棒はあくなきものになるのである」「逆説的な性質」「その物質的な性質がすでに商品になっているような商品」(37)
・「カフェインぬきダイエット・コーク」「あとに残るのは純然たる見かけだけ」「実際には空隔を覆い隠しているにすぎない純然たる見せかけ」(38)
 ジジェクの言いたいことはわかるとしても、「コーク」は実例として適当か? コークの歴史を見る必要がある。
コークを例にした議論を一般化すると、次のようになる。

・「三つの概念の内的な結びつき」
 「マルクスのいう余剰価値、ラカンのいう余剰享楽としての〈対象a〉」(38)「フロイトによってとらえられた、超自我のパラドクス」、「コークを飲めば飲むほど、のどの渇きは強くなる。利益をあげればあげるほど、もっと利益が欲しくなる。超自我の命令に従えば従うほど、罪に意識が強くなる」、「愛のパラドクスとはまったく正反対のパラドクス」(39)
 こうして、欲望という接点によって、経済と宗教とは接続する。その場は、「こころ」。環境問題とはこうした構造において成立している。では近代の特異性は? 欲望と愛という二つの正反対のパラドクスとすれば、アウグスティヌスの愛論はどうなるか?

・「性的差異」(39)
 ジジェクの性とはいかなる概念か。これに注意しつつ、読み進める必要がある。
・「つねに限界を破れといった無際限の超自我の命令には抑制のない過剰な享楽が具現されているという空想に支えられなければ、象徴的秩序への参入に耐え抜くことのできない存在、それが男性である。要するに、男性にあっては、象徴秩序への参入が超自我という例外によって支えられているのである。」
 「秩序と例外」は現代思想のキイワードの一つ。法と宗教という問題系で問われるべきもの。

・「現在進行しつつある市場経済自体の「文化化」」「市場と文化とのこうした短絡」(40)
・「そのようなショッキングな過剰とは、システムの一部である」「ポストモダニズムにおいては、逸脱的な過剰性は衝撃力を失い、制度化された芸術市場にまるごと取る込まれるのである」、「崇高なる美からなる聖なる空間と廃物〈残り物〉からなる排泄的空間とを隔てる溝が今日の芸術においてはだんだん狭くなり、最後には両者が逆説的に一致してしまう」(41)
 芸術の商品化。一方で「だれでも芸術家」(芸術の大衆化)が成立し、他方で先鋭した芸術家の「過激な実験」が試みられる。この二つは逆の様相を示しつつも、同じ一つのメカニズムの中で進展している。
・「日常的な経済活動の回路から隔離された〈もの〉の占める空虚な(「聖なる」)場所」「というマトリクスは、ますます危機に瀕しているようにみえる」「空虚な〈場所〉とそれを埋める〈実体的な〉要素とをわけるギャップ」(42)
・「構造内部の空虚な場所は固有の場所を欠いた逸脱的要素と相関関係にあるということ」「両者は別個のものではなく、同じ要素の表と裏」「純粋な〈場所〉はそれを占有する要素と区別されなくなる」(43)
この論理構造は、様々な現象を分析のに使える。ジジェクはここで「自殺の様態」へと議論を進めるが(44-48)、これはスキップして、芸術と商品化の議論を追うことにする。

・「問題は、美学の漸進的な商品化と商品世界の美学化という今日の二つの動きのなかにあって、「美しい」(美的快楽をもたらす)対象がじょじょに〈もの〉という〈空隔〉を支えきれなくなっていることである──それゆえ、(聖なる)〈場所〉を維持するには、それをごみ屑で、排泄物のような棄却されたもので、ふさぐしかないかのようなのだ」、「われわれが象徴的な秩序の内部にいられるのは、現前するあらゆるものの背後にそれを不在にしうる背景がある限りにおいてである」、「(芸術的)〈対象〉とそれが占める〈場所〉との緊張関係が真剣な思想の対象になったこと」(49)
・「ある種の素朴さが永遠に失われたのである」(50)
 象徴体系(意味世界)と根拠(内実)、普遍と例外(個)、両者は区別されつつも、ジジェクの言うギャップ・空隔で隔てられ、それによって意味世界は成立している。しかし、美的なもの・宗教的なものがすべて商品化され日常へと落ち込むとき、それは意味世界自体の危機を生じることになる。これが現代。

・「芸術におけるモダニズムと政治におけるスターリン主義の同時代性」(51)
・「金正日においてれっきとして機能しているこの論理」(52)
・「彼らが美の機能を「表象していた」ということ」(53)
・「ありふれた卑俗な形象を〈美〉の理想に高める──美の意味を機能性にのみ還元する──この身振りは、「醜い」日常の廃物を芸術作品に高めるモダニズムの行為と明確な相関関係にある。」(54)
 これは、もう一つの実例(ジジェクのサービスか?)。わかる人にはわかりやすい、スターリン主義という例。
 以下、絵画からの実例。クールベの場合。

・「伝統的リアリズムの幻想は、描かれた対象を忠実に提示することにあるのではない。それhむしろ、描写された対象の背後には絶対的な〈もの〉の存在があり、それとの接触を妨害する障害あるいは禁止を廃棄すれば、その〈もの〉をたえらることがdけいる、という思いこみにあるのだ」、「クールベがここで成し遂げているのは、脱崇高化という過激な身振りである」(56)
・「崇高化は崩壊する」、ここに「崇高化のマトリクス…を再─整備しようとするモダニズムの企画がでてくる」(57)
・「〈空隔〉自体を、〈空隔─場所─フレーム〉としての〈もの〉を、直接提示すること」(58)
 以上の実例に即した議論を前提に、ジジェクが提起する課題は次のようになる。

・「歴史的唯物論がここでなすべき分析は、こうした形式的な規定のすべてを具体的な歴史的文脈のなかの位置づけることである」(58)
・「ごみくずから逃れる唯一の方法は、ごみくず自体を聖なる〈空隔〉の場におくことである。しかしながら、状況はさらに複雑である」、「つまり、〈空隔〉として、実際の出来事の背景として現前しているのではなく、直接現前し、現実のなかで具体化され、象徴的空間を精神病のように崩壊させるおそれがある」(59)
・「グローバルな大惨事」「それがかくも衝撃力をもつのが二〇世紀であってそれ以前でないのは、いったいなぜか。くりかえしになるが、答えは、美学(社会的交換をのがれた崇高な美の空間)と商品化(交換の場そのもの)が漸進的に重なり合っていく状況のなかになる。」

 それにしても、身振り、立ち位置、戦略、といった言葉は、お互いに、なんとなく自然に使ってしまっているが、かなり意味不明ではないか。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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