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ジジェク(2l)

12.キリストによる束縛の解除 
 イエスの宗教運動、神の国とは何か。「束縛の解除」

・「キリストが(彼に先行するブッダのように)」「社会階層の停止を強調するため」、「この新しいコミュニティーは明らかに除け者たちの集団として、既存の「有機的な」グループとは正反対のものとして構成されている」、「「異常な」除け者コミュニティ」「の系譜」(175)
・「集団形成の二つの例」「〈教会〉と〈軍隊〉」、「根本的なパラドクスは、経験的な制度に関していえば、二つのコミュニティーはしばしば入れ替えられる、ということである」(176)
・「〈教会〉と、社会制度内の〈教会〉の権威を脅かす対抗-コミュニティーとして台頭した修道院」、「〈教会〉のあったところに、〈軍隊〉が生じなければならない」(177)
・「均衡状態を回復するための円環の論理を停止すること」「社会のヒエラルキーは逆立ちしている」、「精神分析でいう倒錯への誘惑を避けること」「そんなことになれば」「単にその上下を入れ替えて逆立ちさせただけであり」「いぜんとしてそれに寄生することになる」、「愛は社会のヒエラルキーの偉大なる粉砕者ではないのか」(178)
 単なる逆立ちという解放運動の問題点。解放の神学の落とし穴

・「「愛において、そして愛という動機から、愛する者を憎め」」、「私は、かけがえのない人間として彼を愛するがゆえに、社会的-象徴的構造に取り込まれた彼の側面を「憎悪」するのである」(179)、「「社会的役割」やイデオロギー的な機能や仮面の下に隠れている「現実の人間」をみるべきである、というありふれた「ヒューマニズム的な」思想とはいっさい関係ない」「聖パウロは、断固たる「理論的反-ヒューマニズム」の持ち主である」、「「だれをも人間的な見方によって知ることはすまい」」(180)
 ここは肝心ではあるが、難しい。

・「「束縛の解除」は「象徴的な死」をともなっている」「法に対して死ぬ」(180)、「新たにゼロから出発する身振り」「「束縛の解除」のなかには、おそろしい暴力が存在している」「徹底的な「過去の清算」という暴力」
 これはユダヤ教の起源にあるあの暴力とは違うのか。この暴力はトラウマにならないのか。

・「真に信じる者は仮象を、ひとつの仮象を通じて輝き出す神秘的な次元を、信ずる」、「彼は他者のなかに、他者本人すら気づいていない〈善良さ〉を見出す。っこでは、仮象は現実にはもはや対立していない」(181)
 特殊と普遍の関係との類似。
・「〈絶対的なもの〉は脆弱ではかないものである」、「そうした奇跡的な、しかし同時にきわめて脆弱な瞬間において、われわれの現実にはまったく別種の次元が生ずるのである」(182)
 たしかに、絶対とは?

・「理想化と崇高化との差異」「誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする」、「あるいは」「自己のいだく幻想を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。一方、真の愛は、愛する者をありのままに受け入れる」、「愛とは活動のことである」(182)
 波多野とジジェクの近さ

・「今日「原理主義」によって脅かされているのは、この「束縛の解除」というキリスト教の遺産にほかならない」、「結局ファシズムとともに生じるのは、敵への愛を拒否しながら、自身の民族的共同体との完全な同一化をもくろむ異教的道徳観への回帰ではないだろうか」(183)
 原理主義、ファシズム、そしてニューエイジ

・「これに対する答えは、キリスト教的な「絶縁」は内面的な瞑想の姿勢ではなく、現状とは異なるコミュニティーの創造を必然的に生み出す、愛の積極的な活動である、ということだ。さらに、ファシズムにみられるような既存の象徴的規則からのカーニヴァル的な「絶縁」とは対照的に、キリスト教本来の「束縛の解除」は、顕在的な法を停止するのではなく、むしろ、法に潜在的に取り憑いた、幽霊のような猥褻な付加的要素を停止するのである」(184)
 核心点に触れつつある。


13.「おまえはやらねばならない、できるのだから!」
・「反ユダヤ主義的暴力を否定していても、その仮面の下には反ユダヤ主義が隠れている、ということだ」、「並置するこの身振り」(185)
・「一般の擁護論の中身にも、同じような反転がみられないだろうか」、「公的に容認されたイデオロギー的内容」「とその裏にある否認された、猥褻なもの」「とのあいだの緊張関係」、「それがこの反転を解く鍵である」(186)
・「超自我」「〈法〉をつくる」不気味な〈もの〉」、「「享楽せよ!」という不可能な命令を発する法」(187)
・「道徳的禁止を停止させる超自我の働きは、今日の「ポストモダン」ナショナリズムの重要な特徴である」、「快楽主義的な寛容な顔をした、だが逆説的にまずまず規約だらけになっていく今日の反省的なポストモダン社会」、「倒錯した似非-自由主義的な効果」(188)、「超自我が顕在的な社会-象徴的法の構造をいかに補強しているか」(189)
・「許された享楽が命じられた享楽へと変容する地点」、「超自我はこのカント的な「おまえはできる、しなければならないのだから」を、「おまえはするべきだ[しなければならない]、できるのだから」に反転するのである」、「この〈ニューエイジ〉的な態度もまた、ひそかにではあるが、「おまえは[完全な自己実現と自己充足を果たすという自分の義務を遂行]しなければならない、おもえにはそれができるのだから」という超自我の命令によって支えられているのではないか。われわれが〈ニューエイジ〉唱道者の卑屈な寛容さの背後にしばしばテロリズム的な圧力を感じてしまうのは、このためではないか」(190)、「「おまえの本当に欲しいものが何であり、おまえの最大の関心事が何であるのか、私はおまえ以上に分かっている。だから私は命令する」、「この「快楽と義務」との外面的な対立」、「全体主義的なポピュリズム的民主主義」(191)
・「超自我という概念はまさにこの二つの対立するパラドクスがオーバーラップする場を意味している」、「そこでは、義務を楽しめという命令が楽しく過ごす義務とオーバーラップするのである」(192)
 個性的であれ、自分らしくあれ、という命令。現代の、しかも宗教的な問題。第三次宗教ブームの背後にあるメカニズム。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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