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ジジェク(2m)

このところ、集中的に行ってきた、ジジェクの『脆弱なる絶対』の紹介・コメントも、大詰めが近づきました。のような形式になるかはわかりませんが、続いて、『操り人形と小人』を扱う予定です。ジジェクの本は、タイトルだけでは、何をテーマにしているとか、疑問に思う人も少なくはないでしょうが(『脆弱なる絶対』の方も、最後に=次回、ようやく登場しますが、明示的な説明はありません)、これは、平たく言えば、『キリスト教神学と精神分析』といったところでしょうか。


14.知識から真理へ……そして再び知識へ
 この章は、前章の問題を、「違う視点から」「〈知識〉と〈真理〉との弁証法的な緊張関係という視点」(193)から考えることを意図している。
・ひとは「真理を装って嘘をつくことができる」し、「嘘を装って真理を述べること」もできる(193)。
 これは、精神という自己言及性(再帰性)において存在している人間に特有の事態である(あるいは、これを人間という)。相互における誠実性の原則の承認は、パラドクスを構成する。

・「デネットは」、「意味は言表に内在する純粋な統語論的条件だけでは説明できないと主張する」、「言表の意味論的な側面を、言表が指示する対象と過程を考慮に入れること」、「だが、私の主張はそれとは異なっている」、「重要なのは、実際のメッセージをモールス信号で送るためのプラスとマイナス(長所と短所)からなる示差的な連鎖のなかに、真理-価値を翻訳することである」(194)
 意味と指示との区別と関係についてきちんと整理した上で議論を行わないと、何を論じているのかわからなくなる。
・「患者の言表の真理-価値は無意味ではないが、現実的に重要なのは」「真理を嘘の入れ替わりがまさに患者の欲望を暴露するということ」(194-195)、「自分の欲望を暗号化する」、「最終的に重要なのは、この虐待そのものではなく、それが患者の象徴秩序のなかで果たす役割」、「それがどのように「主体(主観)化」されているかということである」、「しかし、単なる「客観的」知識に対立するものとしての、真正な主観(主体)的〈真理〉というこの概念は、ラカンの最後の言葉ではない」(195)
 どうぜんそうだろう。二分法では単純すぎる。

・「主体に自分の欲望の真実と向き合うことを強い」る。「主体の身を守り、助けるような虚構を提示するという援助と同情の動き」「は、率直にいえば、嘘」「である」、「この解決は結局のところ嘘である」(196)
 嘘も方便? 方便の意義は? あるいは嘘から出た真! かように、知識と真理の弁証法は複雑である。

・「言表の主体と言表行為の主体を区別するべきである」(196)
・「彼女が主体的な〈真理〉(言表行為の位置)のレヴェルで自己に忠実であるためには、言表のレヴェルで嘘をつく」「しかなかっただろう」(197)
 この区別は十分か?

・「分析的言説の目的は、欺いたり隠し立てしたりすることのない、すなわち、言語の直接的な意味を議論の隠された修辞的戦略の一部として用いることのない言語活動を実践することであるという、ジャック=アラン・ミレールの簡潔な指摘」(198)
・「日常の言語活動において、真理はけっして完全には成立しない。そこにはつねに賛成と反対がある」、「すべての言表はつねに否定されうる。すべてが決定不可能な状態にあるのだ」(198)
・「ラカンによれば、精神分析的言説が現代科学の一翼を担うのは、それがクッションの綴じ目という方法によれずに、あらゆる議論に浸透したこの悪循環を打ち破ろうとするからである」(198)
 分析的言説、日常の言語活動、そして精神分析的言説。この三者関係。

・「主体はこのレヴェルにおいて解釈の悪循環を打ち破る」、「ユダヤ人は〈神〉の命令と禁止に字義通りに従いながら、なおかつ自分たちの欲望を保持することによって実際には〈神〉をだましているのだ、というキリスト教の基本的な批判に答えるための方法でもある」(199)
 律法主義批判
・「これに対する返答は、解釈の領域全体を宙づりにすることになろう」、「超自我という精神分析的概念の根本的な教えは」、「われわれの時代の特徴とされる、快楽主義的なナルシシズムを嘆く新保守主義には申しわけないが」、「自分の果たす義務(ここでは、真実を述べるという義務)の実を犯さずに楽しむことぐらい難しいことはない、ということである。義務に逆らって自分勝手な行動を楽しむのは、簡単である。それに対して、ひとが義務の遂行を楽しめるようになるのは、精神分析的な治療の成果によってである」(200)
・「超自我の悪循環を打ち破ることができるか」(201)
・「疚しい意識」、「「〈法〉に従うためにあなたが背信への欲望を抑えれば抑えるほど、その欲望はあなたの意識に回帰し、ますますあなたに取りつくようになる」という超自我のパラドクス」(201)
・「この罪の欠如こそが、ユダヤ人は卑しくも己の病的な目標を否定せずに〈法〉を操作しているというキリスト教的批判の誤りを証明するものであるとしたら」、「ユダヤ的宗教は「罪の宗教」ではあいささかもなく、逆に罪意識の回避を可能にするのだ」「罪の意識をきわめて効率的に操作するのは、キリスト教の方である」(201)

・「〈法〉と侵犯との超自我的な弁証法は、〈法〉自体が侵犯行為を生み出すという事実のみに、〈法〉に対する違反は〈法〉から生まれるという事実のみに存するのではない。〈法〉そのものへのわれわれの服従は「自然な」もの、自発的なものではなく、〈法〉を侵犯したいという欲望(の抑圧)によってつねにすでに媒介されている。われわれが〈法〉に従うのは、あくまで、〈法〉を犯したいという欲望に必死で打ち勝つための方法の一環としてなのである」、「法に従えば従うほど、われわれの罪は強くなる」、「キリスト教において、罪への欲望(意志)は罪の行為に等しい」(202)
 信仰と相関する罪意識と病的な罪意識、その境界線は?

・「ユダヤ人によって首尾よく無効にされるのは、この超自我の弁証法にほかならない。彼らの〈法〉への服従は、抑圧された罪への欲望によって媒介されていない。だからこそ、彼らは〈法〉の字面にこだわりながら、なおかつ、罪の意識もないままに欲望を実現する方法をみつけたのである」(202-203)

・「しかし、罪の意識を生み出す侵犯的な欲望をめぐるこの超自我的な弁証法は、キリスト教を最終的に規定する地平ではない。聖パウロが明らかにしたように、キリスト教はそのもっともラディカルな姿勢において、法と侵犯的な欲望との悪循環を断ち切らねばならない。」(203)
 これが、ニーチェへの答えとなるか。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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