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ジジェク(2n)

いよいよ、『脆弱なる絶対』も最終章となります。結局、何が論じられたのか。何がポイントか。考えるべき論点は、さまざまあったと思います。「脆弱なる絶対」の意味も、最後にある程度は、了解可能になるでしょうか。

15.脱出
 ラカン、ジジェクにとって、「男性的」「女性的」とは何か。
・「われわれの答えは、ユダヤ教からキリスト教への移行は性別化の「男性的」定式から「女性的」定式への移行のマトリクスに従っている、ということである」(204)

・「ベスの〈享楽〉は「〈他者〉の」享楽である」「彼女の享楽は完全に彼女にとっての〈他者〉であるジャンのなかに疎外/外化されているのだ。つまり、彼女の享楽は、自分は〈他者〉を喜ばせることができるという意識に存するのだ」(206)

・「ユダヤ教とキリスト教お緊張関係」「パラドクス」「聖パウロによって詳述された〈法〉とその侵犯との悪しき弁証法は不可視の第三項であるということ、それはユダヤ的宗教とキリスト教との「消滅する媒介者」である」、「その幽霊は両宗教に取り憑いている」(206)

・「基本的な課題」「聖パウロが示すように、〈愛〉を通じて〈法〉と侵犯との超自我的な悪循環から脱け出ることである」(206-207)
・「逆説的な位置にある〈愛〉」
・「この矛盾する二つの主張をラカンによる女性の性別化の定式にしたがって読むこと」・「愛においても、私は無なのである。が、それはいわば、無であることを謙遜に自覚した〈無〉であり、欠如の意識そのものによって逆説的に豊かになる〈無〉なのである。」(208)
・「欠如を抱えた、弱い存在だけあg愛する力をもつ。したがって、愛の究極の神秘は、不完全のほうがある意味で完全よりも高い地位にあるということなのだ。一方では、愛することが出来るのは不完全な、欠如を抱えた存在だけである。われわれが愛するのは、すべてを知らないからである。他方では、たとえわれわれがすべてを知ることになっても、愛は、不可解であるが、完成された知識よりも地位が高いのである。キリスト教の功績はおそらく、愛する(不完全な)〈存在〉を〈神〉の──究極の完成体の──位置にまで高めたことである」(209)
 この神理解は、キリスト教の核心に属する。

・「後者の弁証法は、明らかに「男性的」/ファルス的である」、「一方、愛は「女性的」である。それは「〈すべて〉-ではない」もののパラドクスをともなっている」、「したがって、〈法〉を転覆するには二つの方法がある。「男性的」方法と「女性的」方法である」(209)

・「キリストそのひと」
・「主体が法と完全に同一化できずに、法とのあいだにある種の距離を保っている限り、またそのときにのみ、主体は現実に権力の「内部」にいる(権力の網の目にとらわれている)──それが公的権力とそれに内在する逸脱との関係の基本的なパラドクスである」(210)
・「私は空想の悪循環にとらわれ、ようやく釈放されたときには、空想と現実のグロテスクな乖離によって押しつぶされてします。それゆえに、真の解決は獄中生活のルールを完全に受け入れることである。そして、このルールに支配された世界に内部で、そのルールを打破する方法を編み出すことである。要するに、内的な距離や〈別の場所での生活〉をめぐる空想は、事実上私を監獄につなぎとめるが、一方、私は現実にその場にあって監獄のルールに縛られているという事実を完全に受け入れることは、真の希望のための空間を開くのである」(211)
・「眼前の社会的現実の支配から実際に自由になるためには、まず、われわれに付着した空想という逸脱的な付加物を放棄すべきである」
・「彼自身の足を撃つ」「この馬鹿げた行為」(212)
 権威に従え、との勧めはその意味で解すべきか。
・「ある状況で選択を迫られた主体がいわば自分自身を攻撃するという、つまり自分にとってもっとも大切なものを攻撃するという、「狂った」不可能な選択にはしること」「この行為は、自分自身に向けられた無力な攻撃性という症例に収まるのではなく、むしろ、主体自身が置かれた状況の座標軸を変える。敵が自分を支配する原因になった、宝のように大切な所有物を切り離すことによって、主体は自由な行動のための空間を手に入れるのである。「自分自身を攻撃する」というこうした過激な身振は、主体性それ自体の構成お湯居んではないだろうか」(213)
 議論は少しずつわかりやすくなる。
・「自分自身よりも大切な一人息子、イサクを犠牲に捧げるように神から命じられたアブラハム」
 こう来るか。しかし、この場合の敵とは?

・「フロイトの後期作品、『モーセと一神教』の急所ではないか。フロイトはナチスの反ユダヤ主義の恐怖に、どのように反応したのであろうか」(213)
・「モーセという人物をなんとかユダヤ人から奪い取ること」、「こうすることによってフロイトはまさに、反ユダヤ主義の、無意識における基盤を掘り崩したのだ」「「自己破壊的な」行為だけが新たな始まりのための場所を開くということ」(214)
・「以上の例がすべて男性の行動であるという事実は、そのような身振りは本質的に男性的なものであるという結論を導くおそれがある」、「その結論と逆である」(214)
・「メディアを真正な行為の主体として再評価しなければならない」(215)
・「セス」「彼女はメディア的行為によってもっとも大切なものを、子供を殺そうとするのだ」(216)、「子供たちの威厳を保つためには、子供たちを殺すしかない」(217)
・「ソフィーの罪の意識」(217)

・「セスの行為は、すぐれて近代的な倫理的行為の典型例」、「フロイトのいう断念(abstaining)[Versagung]」という身振りの構造」

・「伝統的な(前近代的な)行為」、「アンティゴネ」「早すぎる死のために経験できなくなってしまったこと」「をすべて数え上げる」、「これは、ひとが〈例外〉(ひとの行為の原因であり、それ自体は犠牲として捧げられることのない〈もの〉)を通じて捧げる「悪しき無限」である」、「カント的な〈崇高〉の構造」「つまり、犠牲として捧げられた経験的/病理的な対象が途方もなく無限に増大してゆく様」「崇高である」「巨大にふくれあがったリスト」、「このアンティゴネが典型的に男性的空想であるということを、あらためてふけ加える必要があるだろうか」(218)

・「これと反対に、近代的な倫理」「ひとはこの〈もの〉という例外を停止する。つまり、ひとは〈もの〉に対する忠誠の証として、〈もの〉自体を(も)犠牲に捧げるのである」(218)、「キルケゴールは、キリスト教徒に向かって、愛ゆえに愛する者を憎めと命じたのである」(219)
・「これこそが、セスの行為におけるもっとも耐えがたい点」「子供たちに対する忠誠心から子供たちを殺したということ」、「この[〈もの〉という例外の]停止がなければ、本物の倫理的行為はありえない」、「倫理的行為は」「女性的な主体性の構造をもつ」、「高尚化すること自体が、まさに男性的な論理である」(219)
・「この権力闘争の(「男性的な」)普遍性は、〈女〉という、みずからに内在する例外としての倫理的形象に依存しているが、これとは対照的に、本来の(「女性的」な)」倫理的行為はまさにこの例外の停止をともなっている」(219)
・「〈女〉の立場を非政治的で倫理的な立場へと祭り上げ、男の権力政治の世界を過剰な犯罪的要素から守ることは、本質的に男性的である。一方、「女性的な」倫理的行為は、まさにこの境界線そのものの停止をともなっている」「セスの行為をかくも怪物的なものにしているのは、それにともなう「倫理的なものの停止」なのである 」、「政治的」、「象徴的共同体から排除されながら、なおかつ生き続けた有様である」(220)
 男性的、女性的とは、さらにラカンを読む必要があるか。

・「自分の欲望を」「「病理学的な」ものとみなしたりするかわりに、自分の怪物的な行為が根源的にもっている倫理的な地位に固執するのである」(221)
 倫理という概念も二義的に使われている。これが議論をわかりにくくしている。

・「今日のセルビアにおいて真正な行為がなされるための必須条件は、コソヴォに対する権利を放棄すること、すなわち、特権化された対象に対する強い愛着を犠牲にすることであろう」「自分自身を撃つ」(222)

・「〈神〉は人間をその罪から救うために〈神〉の唯一の息子を犠牲に捧げたのだと聖書が語るとき、この奇妙な行為を説明する方法は二通りしかない」(222-223)
「全能者としての〈神〉は、人間と〈神〉の息子を使って猥褻なゲームを行う倒錯した主体である」「神は全能ではない」
・「伝統的な読みは、〈磔刑〉の究極のミステリーを、すなわち〈磔刑〉、〈神〉の息子の死は幸福な出来事であるということを、消去してしまう」、「〈磔刑〉において、犠牲の構造はいわばみずからを止揚し、特定の実体に根付くことにない、あらゆる特殊なつながりから自由になった主体(「聖霊」)を生み出している」、「行為という概念に必然的に付随する放棄の身振り」(223)
・「空想的な〈他者性〉を捨てたとき、われわれは、社会的現実に付加された空想的な要素として片づけることのできない〈別の場所〉を垣間見るのである」、「別の次元へとつりあげる、意味の一瞬の停止」(224)
 これはユートピアと違うのか。ユートピアをも超えるユートピア精神。

・「光を聴く」
・「ひとは凡庸な逃避主義とこの〈他者性〉の次元を、つまり〈絶対的なもの〉がそのまったき脆弱性において現れるこの不思議な瞬間を、区別すべきなのだ」(225)
 これがこの作品のタイトルになった。

・「資本主義が支配する現在の、つかみどころのない亡霊でもない。それは、あらゆる真正な革命的立場が固執すべき未来のユートピア的な〈他者性〉という、はかない幻影である」、「第三の様態の亡霊は、〈聖霊〉そのものに他ならない。つまり、社会構造の「束縛から解除された」除け者としての信者たちがつくる」「コミュニティー以外の何ものでもない」、「何かしら怪物的な恐ろしさ」
 波多野との比較もさらに追求すべき。未来、他者性、恐ろしさ
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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