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ジジェク(3a)

今回から、スラヴォイ・ジジェク『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』青土社、の紹介・コメントを掲載します。前回までの『脆弱なる絶対』と同じ形式でのあつかいになるかはやや未定ですが、ともかくもスタートします。この二つの著作が連続していることは、以下の「序」からも明らかです。

「序 神学という名の操り人形」
・「神学的な次元は、脱構築による、「世俗化以降の」メシア的転回という意匠のもとで息を吹き返している」、「ベンヤミン」「『神学』と呼ばれた操り人形」

・「宗教が、もはや特定の文化的生活形態に完全に組み込まれたり、それと同一化したりするのではなく、自律性を獲得し、その結果、様々な文化にまたがる同じひとつの宗教として生き残ることができるような体制──これは、近代のありうべき定義のひとつである。宗教は、このように蒸留されることによって、みずからをグローバル化できるようになる」(8)
・「そうなるためには犠牲も必要」「宗教は、社会全体をまとめるという世俗的な機能の面においては、補助的な付随現象に格下げされる」「宗教が担う役割には二つある。治療的役割と批判的役割である」(9)

 通常の世俗化論・近代化論と基本的に同じ。


・「『信仰と知』」「宗教の三様態」「「民衆の宗教」」「「実定的な宗教」」「「<理性>の宗教」」(10)

・「問題は、近代という<理性>の時代において、宗教は社会を有機的にまとめるというこの機能をもはや果たすことができない、ということである。今日、宗教がこの力を失い、もはやそれを取り戻すことができないのは、科学者や哲学者のせいだけではない。「普通の」人々という大きな集団のせいでもある」(11)

・「宗教的な問題に関して第一に銘記すべきことは、「深遠な精神性」への言及がふたたび流行していることである」(12)

・「キリスト教の転覆的な力を秘めた核は」「唯物論的アプローチによってしか理解できない」、「真の弁証法的唯物論者になるためには、キリスト教的な経験を経るべきなのだ」(13)

・「人々が率直に「本当に信じた」時代は、歴史上、存在しただろうか」、「主観的にみて完全に真実であると思うこと」「に対する率直な信仰は」(13)「近代的な現象である。前近代の社会は、率直に信じたのではなく、距離をとって信じていた」(14)
・「彼らは、自分たちの信仰の概念を「原始化された」<他者>に押しつけたのだ」(14)

 ロビン・ギルの「空になった教会という神話」を思い出せば、よくわかる。

・「われわれは今日、もはや「本当の信仰心」をもっていない。われわれはただ、自分の属する共同体の「生活様式」に対する敬意の一環として(いくつかの)宗教的儀礼や慣習に従っている」、「「わたしは実際にはそれを信じていない。それはわたしの文化の一部なのだ」」、「われわれの時代の特徴である」
・「「文化」という「非原理主義的」概念は、おそらく、その核心においては、個人から切り離された/非個人的な信念の総体に付けられた名前である。「文化」とは、われわれがそれを本当に信じることなく、「それを真剣に受けとることなく」実践している事柄すべてに付けられた名前なのである」(15)
「今日、われわれは結局、みずからの文化をそのままじかに生きているひとたち、文化に対する距離を欠いたひとたちを、文化にとっての脅威を感じている」(15)

・「これは現代の哲学者によく起こることなのだが、支配的システムの偽善に関する彼らの分析は、彼ら自身の素朴さを露呈させる」、「哲学者は本当に、人々が首尾一貫した、原則に則った行動をとることを期待しているのだろうか」、「シニカルな距離感と実利主義的御都合主義を標榜する人々が、みずから認めるにやぶさかではない信仰心よりもはるかに強い信仰心を密かにもっている」、「彼らがこの信仰心を(存在しない)「他者たち」に押しつけたとしても」

これは、重要な論点。自分は宗教を持っていないという仕方での宗教的振る舞い。

・「中断された信仰の枠組みの内部では」「「世俗化以降」の選択肢として三つのもの」
「ユダヤ-キリスト教の家父長的伝統によって抑圧された、前近代の多神教的宗教の豊かさを賛美するか、もしくは、キリスト教とは対照的な、ユダヤ的伝統のもつ特異性、すなわち、根源的な<他者性>との出会いを忠実に守ろうとする態度をつらぬくか」(16)

・「昨今の漠然とした精神主義」(16)、「キリスト教のグノーシス主義的異端と同質のもの」(17)

・「この二つの選択肢のほかに、唯一許されたキリスト教的な参照項は、キリスト教の覇権成立のために除外され抑圧されねばならなかった、グノーシス主義あるいは神秘主義の伝統である」(17)

 ニューエイジをいかに論じるかを考えよう。


・「聖パウロへの積極的な言及は、きわめて厄介な問題となる」(17)

 確かにパウロは厄介である。

・「聖パウロの使徒書簡」「人間としてのイエス」「対して、まったく、おどろくほど無関心であることがわかる」、「イエスの死と復活という事実を確認したあと、パウロは、彼の本分であるレーニン的な仕事、すなわち、キリスト教共同体と呼ばれる新しい党を組織する仕事に向かう」、「レーニン主義者としてのパウロ」(18)

・「聖霊は、「生」の全域」「を無効にする(あるいはむしろ、宙吊りにする)ものとしての象徴体系を表している」、「われわれは、聖霊のなかに身を置くとき、実体変化を経験する」(19)

・「パウロは、ユダヤ的伝統の内部から読まれるべきである」「彼の切断が本来もっている急進性を、彼がユダヤ的伝統をいかに内部から非理崩したかということを」、「われわれは「生成過程にあるキリスト教」を捉えることができる」(19)

・「教義を措定する暴力的身振り、ユダヤ教とキリスト教のあいだの「消滅する媒介者」、ベンヤミンのいう法措置的暴力に近いもの」、「キリスト教のユダヤ教からの切断が真に位置づけられる場所」(20)

『脆弱なる絶対』の議論の展開を期待しよう。
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プロフィール

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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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