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ジジェク(3b)

1 東洋が西洋に出会うとき
 当面の研究に関連する範囲に絞って、ポイントを抜き出します。本来紹介すべき議論は少なくありませんが、引用はできるだけ、限定的に行います。なとえば、禅仏教を問題についても興味深い議論がありますが、それは省略。コメントは時間の関係上、多くありませんが、ポイントの抜き出し方自体がすでに解釈となっており、意のあるところを推察ください。


・「シェリングの問い」「<神>の人間化、永遠性からわれわれの現実というかりそめの世界への神の降下」は「<神>自身の視点からみれば上昇なのだとしたら?」「<神>が十全な現実化を得るための」(22)
・「真の愛とは、まさしく、約束された<永遠性>を不完全な個人のために捨てるという、それとは反対の動き」「愛のために永遠の存在を放棄する身振り」
・「永遠性が究極の牢獄、息の詰まるような閉域であり、時間への転落だけが人間の経験に<開け>を導入するのだとしたら」「「顕現」という<出来事>」(23)

・「<神>が<神>のものとから捨て去られたことを告白するその叫びの瞬間」、「<神>が一瞬であれ無神論者に見える宗教」、「キリスト教は、おそろしいまでに革命的になる」「<神>が単に全能であるさけでは完全ではないと感じた宗教は、地上に宗教多しといえどもキリスト教においてほかない」(25)

・「チェスタトン」「単に苦悩を経験したばかりでなく、懐疑をも経験したと感じさせる」、「キリスト教の、隠された倒錯的な核」、「この最初の禁止に対しても、禁止は罪を生み出すというパウロの明察を当てはめてみるべきではないか」、「ユダの裏切りは」「キリストの使命にとってはなくてはならないものであった」(26)
・「キリストだけが、おのれの使命をまっとうするために、信奉者たちに彼を裏切るように要求したのである」、「倫理的な争点は、ユダではなく、キリストである」(27)

・「キリストは、はじめは、つまり死の前は、普遍的概念(「救世主イエス」)であったが、死を通じて特異な単独者、「イエス・キリスト」として現れた。ここでは、普遍性が単独性に止揚されるのであって、逆ではない」、「キルケゴール的な裏切り」「普遍性のために個人を裏切るのではなく、単独性を持った例外のために普遍性そのものを裏切ること」、「ユダは、十二使徒の当初のグループと普遍的<教会>の創始者パウロとのあいだの「消滅する媒介者」である」(29)
・「普遍性への道は、特殊性の殺害を経るのである」「英雄というものは、普遍的地位を得るためには裏切られる必要がある」、「「誠実な究極の形態としての裏切り」」(30)
・「より高次元にあるキルケゴール的裏切り、すなわち(倫理的)普遍性自体を裏切ることである」、「「宗教的」裏切り、愛ゆえの裏切り」(31)

・「<絶対的なもの>としての愛は、直接的な目標として設定されるべきではない」「愛は副産物の地位、われわれが身に余る恩寵として受け取るものの地位にとどまるべきである」、「革命に生きるカップルの愛」(32)、「われわれ二人の革命的使命のためにわたしを裏切れ」(33)

・「多神教と一神教」「大勢の神々に共通する(背景となる)基盤を前提にしているのは多神教のほうであり、それに対して、ギャップそのもの、<絶対的なもの>それ自体におけるギャップ、(ひとりの)<神>の自己分裂を引き起こすだけではなくこの<神>そのものであるギャップを主題化するのは一神教だけであるとしたら、どうだろうか。この[ギャップという]差異は、「純粋な」差異である。つまり、実定的に存在する諸物間の差異ではなく、差異「そのもの」である。したがって、一神教は<二>をめぐる唯一の論理的な神学である。共通の地を背景とした多数の図のように、<一者>という中立な地を背景にして現れるしかないマルチチュード(マルチチュードの哲学者スピノザが、論理的に破綻することなく、同時に究極の一神教信者、<一者>の哲学者でもあるのは、このためである)とは対照的に、根源的差異は、<一者>がかかえる自己差異であり、<一者>がみずからと、みずからの場所と一致しない状態である。キリスト教が、まさにその三位一体ゆえに唯一の真の一神教であるのは、このためである。つまり、三位一体が教えてくれるのは、<神>は <神>と人間とのギャップに完全に一致するということ、<神>とはこのギャップであるということ──このギャップはキリストであり、キリストとは、人間からのギャップをはさんで隔てられた彼岸の<神>ではなく、ギャップそのものである、すなわち、<神>を<神>から隔てると同時に人間を人間から隔てるギャップである、ということ──なのだ。また、この事実性によって、われわれはレヴィナス的-デリダ的<他者性>の問題点を突くことができる。この<他者性>は、<一者>におけるこのギャップとは正反対のもの、<一者>に内在する二重性とは正反対のものだからである。<他者性>の肯定は、<他者性>自体の退屈で単調な同一性に帰着する」(39-40)

・「仏教の立場は、最終的には、<無関心=無差異>の立場、差異を打ち立てようとするあらゆる情熱を抑えこむ立場である。それに対し、キリスト教的愛は、<差異>を、存在の秩序におけるギャップを導入しようとする。つまり、他の対象を犠牲にしてまである対象を特権化し高尚化しようとする暴力的な情熱である」、「愛の対象を選択すること自体が、すでに暴力なのである。愛による選択は、対象をその文脈から切り離し、それを<モノ>の位置にまで高めるのだ」(52)
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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