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ジジェク(3c)

2 正統の戦慄に満ちたロマンス
特殊と普遍、これが、ひとつの争点となる。チェスタトン、バタイユをめぐる議論は、それ自体、おもしろい。


・「チェスタトン」「正統ほど危険で興奮に満ちたものは、いまだかつて存在したことがない」(54)
・「無神論者が理論と実践の両面において宗教を拒絶するとき、最終的に犠牲にされるのは、宗教ではなく」、「宗教に脅かされているとされる自由そのものである」(56)
・「現代の世俗文化を猛烈に攻撃しながら、結局、」「宗教そのものを捨ててしまった狂信的な宗教擁護論者が、どれだけいることか」(57)

・「イデオロギー的な大<他者>の存在を疑うポストモダン的懐疑に対しては、存在しないのは主体のほうである、と答えるのが正しい対応なのだ」(60)、「実証主義によって最終的に犠牲にされるのは、あいまいな形而上学的概念ではなく、事実そのものである」(61)

・「欲望は人々を先へと駆り立てる]、「幸福は異教的カテゴリーである」(66)、「幸福の代償は、主体が首尾一貫のないみずからの欲望にとらわれたままになっていまうことである」(67)

・「ひとが本当に恐れているのは、自分の要求が完全に受け入れられることである」、「われわれの左翼学者は、体制が与えてくれる特権をすべて享受しながら、外面的には批判的でありたいのだ」(68)

・「本当の意味での知の発展をもたらすためには、われわれは自然な性向との痛みをともなった格闘が必要なのである」(69)

・「ハーバーマス」「彼の議論が説得力をもつようにみえる本当の理由を隠している。彼が実際に述べているのは、自律性や自由ではなく、幸福なのだ」(71)

・「例外があるからこそ、われわれは普遍的法則の神秘をとらえることができるのである」、「チェスタトンのねらいは、理性のみなものである例外に固執することによって理性を救うことである」(72)、「宗教が滅べば、理性もまた滅ぶ」(73)

・「キリスト教は、表面上は自制や罪の意識を装っているが、その仮面の下では無限の歓喜を説いている」(74)、「キリスト教の最終的なメッセージは、あなたは思う存分欲望に身をまかせてよい、そのために支払わねばならない代償はすでにわたしが引き受けている、ということであると主張することさせできるだろう」(75)、「キリスト教の倒錯的な働きにおいて、宗教は、われわれが無事に人生を楽しむことを可能にする安全装置として呼び出されるのだ」(76)

・「特殊が普遍的基準に合致しないときは基準自体を変えるべきであるという」「ヘーゲルの明察」、「規範となる普遍的概念とその特殊な例とのあいだのギャップは、その概念に内在する緊張および欠陥として、その概念そのものに再帰的に反映されねばならない、という明察」、「<法>とそれに対する特殊な侵犯行為との対立の「真理」は、最高の侵犯行為は、<法>そのものである、というこではないのか。これは、チェスタトンの限界であるばかりでなく、より根源的な限界、「実在するキリスト教」の核を形成する倒錯的な解決の限界でもある。厳密な意味での近代にあって、われわれはもはや、われわれの自由を支える既存の<ドグマ>、われわれの侵犯行為を支える既存の<法/禁止>に頼る子音は出来ない」「大<他者>はもはや存在しないというラカンのテーゼの一つの読み方」、「倒錯は、この不在に対抗するための二重の戦略である」(81)、「キリスト教を倒錯性という視点から読解した場合、<神>は、キリストの犠牲を通じて人類を救済する機会をつくりだすために、まず人類を<罪>に陥れた、ということになる」、「<絶対的なもの>はひとり遊びしている。つまり、<絶対的なもの>は、じむからとの再調和をなたすために、まずは自己分裂し、自己誤認というギャップを導入するためである」、「「古い価値観」を復活させようとする今日の新保守主義の必死の試みは、結局のところ、もはや真剣に扱われることのない禁止を押しつけるための、失敗した倒錯的な戦略でもある」「禁止の力は」「カントともに失われたのだ。カントが極め付きの自由の哲学者であることは不思議ではない」(82)

ジジェクの議論から、カント、ヘーゲル、シェリングの問題連関を整理するとどうなるか。ポストモダンということが、古典的な哲学を読まずに済ます言い訳になってはしかたがない。議論は本格的な仕方で行わねば、表面を滑るに終わる。


・「バタイユは、法と侵犯との弁証法的な相互依存性を最終段階までもってゆく」。「バタイユが厳密な意味で前近代的であるのは」、「彼は、この法と侵犯の弁証法に、侵犯への欲望を生み出す禁止の法という弁証法に、とらわれたままなのである。これによって彼は、ひとは侵犯の快楽を可能にするために禁止を設定しなければならない、という気の滅入るような倒錯的な結論」、「バタイユが理解できていないのは、まさしくカントの哲学革命から帰結することである。しなわち、絶対的な過剰とは<法>自体の過剰である」(85)

・「罪悪感の欠如の代償として不安を感じるのである」、「罪悪感とは、われわれが快楽にふけることを可能にするまやかしである。だからこの枠組みがなくなると、不安が発生するのである」、「気に病んだり罪悪感を覚えたりすることは何もない、ということを彼女に納得させることである」(87)
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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