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ジジェク(3f)

5 差し引くこと──ユダヤ教的に、キリスト教的に
『操り人形と小人』も、いよいよ最終章。雅歌、ヨブ、ユダヤ教とキリスト教、パウロ、様々なテーマが絡み合い、いくつかの議論の線がすぐに取り出せる構成です。神の無力・弱さが神自体の内的条件であること、しかしむしろそれが戦う集団を生み出すことなど。
  
 『操り人形と小人』には、AppendixにIdeology Todayという文章がついていますが、それは省略します。本ブログでは、これまで、ジジェクの『脆弱なる絶対』と『操り人形と小人』についてはある程度詳細な紹介を行い、以前には、『ポストモダンの共産主義』『ラカンはこう読め』についても、簡単に取り上げてきました。ジジェクはこうした文献の執筆後も意欲的な著作を行い、それには宗教哲学、聖書学、キリスト教神学などの分野で活躍の思想家との共著が数多く存在します。おそらく、これらを含めたまとまったジジェク論を含む論文の執筆という形で、本ブログの成果を集約することが遠からず予定されています(ジジェクに簡単に触れる論文としては、今月末締め切りのものがありますが)。刊行されましたら、このブログでもお知らせいます。


・「「雅歌」」「隠喩的読解の限界」、「字義通りの読解」「と寓意的読解は、同じ作業の二つの側面を表している」(184)、「情熱的な性的行為そのもののなかに、すでに、「深い」精神的次元が作用しているのだとしたら? したがって、本来なされねばならないのは、セクシュアリティを単なる寓意に還元することではなく、人間のセクシュアリティと動物の交尾とを永遠に分かつ、前者に固有の「精神的」次元を明らかにすることである」、「寓意からこの「精神的」次元の同定への移行」(185)

・「ヨブの苦難の(無)意味という問題」「人類史におけるイデオロギー批判の最初の例」、「なんらかの意味があるはずだという観念を一貫して拒否」、「キリストの苦難もまた無意味なのであって、有意味な交換の行為ではないのである」、「キリストの場合、苦難する絶望した人間(ヨブ)と<神>とを分かつギャップは、<神>自身の根源的な分裂として、あるいはむしろ自暴自棄の行為として、<神>自身のなかに置き換えられるのだ」(188)
・「全能の気まぐれな<神-父>に対する不満ではなく、<神>の無力さを暗示する不満である」「父親の強さを信じていた子供が、父親には子供を助ける力がないということを恐れとおもに発見したときの状態に似ている」、「みずからの無力さをさらけ出しながら実際に死ぬのは、そしてその直後に<聖霊>のかたちをとって死からよみがえるのは、<神-父>なのである」(189)
・「沈黙の身振りをとるなかで、神の無力さに気づいた」、「<神>は正当でも不当でもない、ただ無力なのである。ヨブが突然理解したのは、ヨブの苦難において実際に試練を受けているのは彼ではなく、<神>自身であるということ、そして<神>がこの試練に無残にも負けた、ということである」
・「(神の)<法>の補足物としての猥褻な超自我の機能は、大<他者>のこの無力さを隠すことなのだから、そしてキリスト教はこの無力さ暴く」「のだから、論理的に考えて、キリスト教は、公認の/おおやけのテクストと猥褻で通過儀礼的なその補足物とのあいだの分裂を徹底的に廃棄する最初の(そして唯一の)宗教であるといえる。そこには、隠された、語られざる物語など存在しないのである。この厳密な意味において、キリスト教は<啓示>の宗教である」(190)
・「グノーシス主義の場合、この謎は、秘伝の儀式において、選ばれた者たちだけに明らかにされるのだ。意義深いことに、キリスト教のグノーシス主義的な書き換えは、まさに、公式のキリスト教テクストのなかにある、そうした解読されるべき隠された謎の存在を強調する。したがって、キリスト教において啓示されるのは、たんなるその中味ではなく、はっきりいえば、その背後には暴かれるべきもの──秘密──など存在しない、ということである」、「<神>が啓示するのは、<神>の隠された力ではなく、<神>の無力さそのものである、と」(191)

・「フロイトが『モーセと一神教』で再構成しようとするもの(モーセ殺しの物語など)は、そうしたユダヤ教の伝統に取り憑いた幽霊的な歴史である。ひとが共同体の完全な一員になるには、共同体の象徴的伝統に同一化するだけでなく、その伝統を支える幽霊的なものの存在を、生者に取り憑く死にきっていない亡霊を、欠落や歪曲をこうむりながら「行間において」伝承されてきたトラウマ的な空想の秘密の歴史を、受け入れる必要がある」、「秩序の起源である暴力行為に対する、ユダヤ教の「揺るぎない愛着」によって、ユダヤ人は土地あるいは共通の制度的な伝統をもたずとも、数千年のあいだ存在し、生き残ることができた」、「ユダヤ教のパラドクスは、起源に位置する暴力的な<出来事>への忠誠を維持するために、あえてそれを告白-象徴化しない、ということである」(192)
・「ユダヤ教における否認された幽霊的な物語は、<神>の計り知れない全能性について語っているのではない。その反対である。つまり、それは、異教によく見られる猥褻な補足物によって隠蔽された<神>の無能さを物語っているのだ。ユダヤ人が忠実に守り続ける秘密は、神の無能さに対する恐怖である。そして、キリスト教において「暴かれる=啓示される」のは、まさにこの秘密なのである。キリスト教の発生はあくまでユダヤ教のあとで可能になるのは、そのためいである。キリスト教は、ユダヤ人が直面した恐怖を暴くのである。」(193)

・「ユダヤ教は」「この深淵を」「確固たる空想のシナリオによって隠すのを拒むことを通じて、はじめてわれわれを人間的自由のパラドクスに直面させる」、「<他者>の欲望のあいまいさとのトラウマ的な出会いがないところでは、自由は存在しない」(193)、「わたしたちは、自由のなかに投げ込まれている」(194)

・「選民のある種の「実体変化」」「選民のアイデンティティを変えた」、「「聖霊」は、<主人-シニフィアン>によってではなく、<大義>への忠誠によってまとまった新しい共同体を示している。つまり、それは、「善悪の彼岸」にある──いいかえれば、既存の社会体制における区分の体系を横断してそれを無効にする──新しい分割線を引く努力によってまとまった新しい共同体である」、「自分流の「生き方」を肯定するようなグループの寄せ集めではなく、是って井的な普遍主義にもとづいて形成された戦う集団である」、「すべての民族のなかにあって、ユダヤ人は「部分ならぬ部分」であるから、単なる一民族ではなく、残余、「諸民族の秩序」のなかにしかるべき場所をもたないものであるからではないか」(195)、「ユダヤ人は二重の意味で残余である」、「「正常な」民族の集合にと手tの残余であるだけでなく、さらに、自分自身にとっての残余、自分自身のなかの残余でありかつ自分自身の残余」「でもある。この二つの次元は、弁密な相関関係にある」(196)

・「パウロ的な「実体変化」」「パウロはいわば、普遍性のほうに戻っただけなのだ。つまり、彼にとってキリスト教徒は、人類の残余なのである。われわれ、人類人体は、罪から救済されたとみなされたとき、残余を構成する」、「あらゆる普遍的<実体>は<部分>(特殊な種)と<残余>に分かれるというヘーゲルの論点」、「普遍と特殊との緊張」(197)
・「「<部分>」そのものは、罪を贖われていない、また贖うことが不可能な、<普遍>のもつ「罪深い」側面である」「なんらかの実質的なもの(民族的、宗教的、性的、ライフスタイル的……)特殊性への言及に基礎づけられた政治は、当然ながら、どれも反動なのである」(198)、「<部分に分けられた-全体>と、その<残余>──<特殊>の内部において<普遍>を、すなわち、部分と対立する<全体>そのものを代表している<残余>──とのあいだの分裂」、「特殊な内容(要素、<全体>の特定の部分)をすべて差し引いたあとに残るものとしての残部あるいは残余」「<全体>を部分に分割していったときに最終的に得たれる残部あるいは残余であり、これは、分割の最終過程でわれわれが二つの特殊な部分あるいは要素、つまり二つの<何か>ではなく、<何か>(<残部>)と<無>を手にしたときに得られる結果である」、「<贖罪>という視点からみれば、既存の体制の内部で無とみなされたもの、この体制の残余、その部分ならぬ部分は、<すべて>になるのだ」(199)

・「聖パウロは、ヴァルター・ベンヤミンのいう「メシア的時間」によって、二〇世紀になってはじめて読解可能になった──アガンベンはそう主張している。「時の終わり」が近づいてきるというパウロの非常事態を解く鍵は、革命的な非常事態にある。この非常事態は、「テロルに対する戦争」という今日の自由主義-全体主義的な非常事態とはっきり対立させるべきである」「全体規模の政治化という「カオス」を抑制するため」、「歴史の進展に関する「客観的」分析によってメシア的時間の出現を推定することはできないからである。「メシア的時間」は、最終的には、「客観的な」歴史の進展に還元することのできない主体の介入を表している」、「<出来事>の時間は、「正常な」歴史的時間の彼方および上方にあるもうひとつの時間ではなく、この時間の内部に存在するある種の内的なループである」、「われわれがこの根源的な閉域において手にするのは、たんなる完全な決定論ではなく、われわれの自由な行為を前もって含み入れたある種の絶対的な決定論である」(201)
 ティリッヒのカイロス論とは、このような構造において提示された。また、自由意志と予定との関わりは、こうした点から再考される。主観的と客観的の単純な区分は誤解を生みだけである。
・「<出来事>のための機が熟すのを待っていたら、<出来事>は絶対に起こらないのである」、「<いま>という無条件な緊迫状態」、「真性の革命において宿命が根源的な責任と重なり合うのは、まあにこの意味においてである」(202)、「「ひとは計画し、<神>は成否を決する」といわれる」「キリスト教においては、これは逆転される。「<神>が(まず)成否を決め、(次に)ひとが計画する」と」(203)
・「<出来事>は、純粋-空虚な記号であり、われわれはその意味を生み出すために働かねばならないのだ」 、「<出来事>の余波を生きるという、そこから意義を引き出すという<開放性>である」、「<出来事>によって開かれた新しい空間の意義」、「われわれは<神>を助けねばならない」(204)
・「<神>の自己収縮」、「宇宙を自由にしたのであり、つまりは、宇宙自身の自由にまかせたのである。この自己抑制こそ、本来の創造行為に相当するものなのだ。したがって、アウシュヴィッツのような恐怖をまえにした<神>は、悲劇的で無力な観察者である。だから<神>が歴史に介入するには、「そこに転落する」しか、<神>の息子のかたちをとってそこに現れるしか方法がないのである」(205)

・「キリスト教の「隣人に対する愛」を」(206)、「レヴィナス的主題から引き離さざるをえなくなる」、「キリスト教の比類なき偉業は、<他者性>を<同一性>に還元したことである」、「<神>は<人間>であり、「われわれのひとり」なのである」、「<聖霊>は<他者>ではなく、信者の共同体(より適切にいえば、集団)である。つまり、「隣人」とは、われわれの集団のメンバーのことなのだ」、「<他者>の仮面」「を超えたところに神秘も、隠された真の内実も実在しないということを自覚すること」「は可能である」(207)
 ジジェクの隣人概念は一貫しているか?

・「脱構築の限界」「脱構築はラディカルになればなるほど、脱構築の脱構築不可能な内的条件に、<正義>というメシア的約束に、ますます依拠せざるをいなくなる」(207)、「デリダにおける真の信仰対象」、「この信仰は還元不可能であり、「脱構築不可能」であるということが、デリダの究極の倫理原則なのである」(208)

・「この教えは民主主義のみならず、宗教にもあてはまる。理想的概念とその現実化とのあいだのギャップは、すでに概念そのものに内在している。「<神>はすでに自己矛盾を起こしている」、すなわち、純粋はメシア的約束としての神に対する実定的で概念的な規定はどれもすでに神を裏切っている、とデリダは主張するわけだが、それと同様にわれわれも、「民主主義は自己矛盾を起こしている」というべきなのだ」、「根源的悪(政治的には「全体主義」)」が出現するのは、宗教的信念ないしは理性(あるいは民主主義そのもの)が、未来の現在という様態で措定されたときのみなのである」、「しかし、ヘーゲルに反してデリダは、理想とその現実化との弁証法に還元できない、理想的概念における還元不可能な過剰に固執する」、「深淵の過剰に」、「「純粋な」矛盾を肯定すること」、「あらゆる<他者性>に先行する、完全に内在的な「矛盾」である」(209)、「デリダは、ある種の転倒した現象学的判断停止を行うなかで、<他者性>を完全に脱存在化することによって、すなわち、その実定的な内容を括弧に入れることによって、<他者性>を純粋な潜在性という「きたるべき」ものに還元するのであり、その結果、そこには約束という幽霊だけが残るのである」(210)
 波多野の「将来」

・「ユダヤ教は、<あの世の生>の約束を純粋な<他者性>に完全に現前することも現実化されることもないメシア的約束に還元する」、「それに対し、キリスト教は、この約束の完全な実現を主張するどころか、それよりもさらに不気味なことを成し遂げる。メシアはここにいる、彼は到来した、最後の<出来事>はすでに起こった、しかし、ギャップ(メシア的約束を支えていたギャップ)は依然として残っている」、「差延」「初期のデリダ」(210)、「無期限の宙吊り状態のなかで、常に来るべきものでありつつ、脱構築の脱構築不可能な条件として機能する無限のメシア的<正義>という概念」(211)

・「ヘーゲルという「対立規定」」(212)、「反省[再帰的]規定の論理」(213)
・「「原初的」差異は、物と物のあいだにあるのでもなく、物とその記号とのあいだにあるのでもない。そうではなく、それは、物に対するわれわれの知覚をゆがめることによってわれわれが物を物として受け取らないようになる不可視のスクリーンという空無と、物とのあいだにあるのだ」「このギャップはまた、夢と現実を隔てるギャップでもある」
・「パラドクスによってわれわれは、人間とキリストとの関係に連れもどされる」(214)、「「人間は人間である」は、人間と人間の不一致、すなわち、人間の自己同一性を壊乱する、非人間的なと呼ぶにふさわしい過剰を示している。そして、キリストとは、結局のちころ、人間に内在するこの過剰に付けられた名前以外の、人間の疎-密的ex-timateな核以外の、つまり、聖書における数少ない倫理的英雄のひとり、不運なポンテオ・ピラト(もうひとりの英雄は、もちろんユダである)にならっていえば、「このひとを見よ」というほうに示すしかない怪物的な過剰以外の、何であるというのか。」(215)
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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