芥川龍之介を読む

 「宗教研究と文学」というテーマは、当然、近代日本文学にも当てはまる(日本の文学研究の現状がどうであるかは別にして)。そもそも国民文学としての文学と大学での研究としての文学研究は、いずれも近代の産物であり、日本においても、明治以降に輸入されたものである。宗教と文学、欧米と日本という単純な二分法的図式は、現実を理解するに限界があることは、明らかである。

 今回は、芥川龍之介(1892-1927)を取り上げてみたい。夏目漱石を含め、明治の文学者が、作品の内実というレベルでのキリスト教との関わりが読み取りにくい状況にあるのに比較して、芥川とキリスト教との関わりはきわめて明瞭であり、研究として十分な掘り下げが期待できる。もちろん、わたくしは芥川の専門家ではなく、ここでの議論は、次の研究に負っている。紗玉(Cho Saok)『芥川龍之介とキリスト教』翰林書房、『芥川龍之介の遺書』新教出版社。

 先生は、現在、韓国の仁川大学で、日本文学を研究教育されている研究者であるが、韓国のメソジスト神学大学大学院修了後に、日本の二松学舎大学に留学し、文学博士の学位を取得された。先生が一貫して追究されているのが、「芥川龍之介とキリスト教」である。先生は、2011年度に同志社大学に来られていた際に、わたくしが京都大学で行っている代表者をしている研究会に参加され、また波多野精一(『時と永遠』)の演習のも出席いただいことを機会に、芥川龍之介とキリスト教という研究テーマの重要性を教えていただいた。以下は、こうして先生の著書を通して学んだことの一端の紹介である。


1.「芥川龍之介とキリスト教との触れ合いについては、まず青年期にさかのぼって、芥川の残した習作や書簡等を通して読みとることが出来る」(『芥川龍之介とキリスト教』)
「習作「老狂人」」(7)、「中学時代に郷里の松江教会のバイブルクラスに通っており」、「室賀文武」「無教会主義のキリスト者」、「大正三年頃」「基督に関する断片」「はじめて『新旧約聖書』を熟読」。
 芥川のキリスト教への関わりは、本格的なものであり、作品の表面などからうかがえるといったレベルのものではない。

2.「西方の人」「続西方の人」(1927)は、先生の解釈によれば、芥川のいわば「遺書」を構成する最晩年の作品に属するものであるが、「キリスト」を正面から扱った作品である。
・「聖書を熟読し、クリストという鏡の中に自分を発見している」。芥川は、キリストと自分とを重ねて見ている。それは、「ジャアナリスト兼詩人」「人の子」「私生児」「貧しい人」「民衆」というキリスト像である。つまり、「芥川は自分自身を「ジャアナリスト兼詩人」であり、狂気の母を持ち出生の秘密を持つ「貧しい人」「民衆」に近い者であると捉え得ており、そこから見られたキリストは、「クリストが指し示した「現世の向こうにあるもの」、「未来」を夢見る「無限の道」を走る人である」(281)というものであった。

・「1 この人を見よ
 わたしは彼是十年ばかり前に芸術的にクリスト教を――殊にカトリツク教を愛してゐた。長崎の「日本の聖母の寺」は未だに私の記憶に残つてゐる。かう云ふわたしは北原白秋氏や木下杢太郎氏の播いた種をせつせと拾つてゐた鴉に過ぎない。それから又何年か前にはクリスト教の為に殉じたクリスト教徒たちに或興味を感じてゐた。殉教者の心理はわたしにはあらゆる狂信者の心理のやうに病的な興味を与へたのである。」(「西方の人」の冒頭部分)

・「彼は実にイスラエルの民の生んだ、古今に珍らしいジヤアナリストだつた。同時に又我々人間の生んだ、古今に珍らしい天才だつた。「予言者」は彼以後には流行してゐない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであらう。彼は十字架にかかる為に、――ジヤアナリズム至上主義を推し立てる為にあらゆるものを犠牲にした。ゲエテは婉曲にクリストに対する彼の軽蔑を示してゐる。丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬してゐるやうに。――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」(「続西方の人」の結び)

 この「続西方の人」の文章で言及された「エマオ途上の弟子たち」の想い(「我々の心を燃え上がらせた」)は、芥川自身の想いと言ってよいであろう。

3.「西方の人」の冒頭で「何年か前にはクリスト教の為に殉じたクリスト教徒たちに或興味を感じてゐた」と述べられたのは、次の一連の「キリシタン物」であり、そこでは、殉教者や棄教者とその心理が取り上げれている。
「尾形了斎覚え書」(1917)、「奉教人の死」「邪宗門」(1918)、「きりしとぽろ上人伝」「じゅりあお・吉助」(1919)、「黒衣聖母」「南京の基督」(1920)


・先生によれば、そこには、「殉教者、殉教者の心理に見せる芥川の関心」「合わせて棄教者、棄教者の心理、進んではキリスト教徒として人のために命を捨てる「捨命」者、「献身」者の真理への関心」を読み取ることが出来るが、内容を整理すると次のようになる。
 「人のために命まで捨てる「アガペーの愛」「無償の愛」の作者芥川は注目している。
 「「神聖な愚人」に見せる関心や羨望である」
 「苦しむ者と苦しむキリストの姿」
 「理性を超えた奇跡への関心」

 死をかけた愛への共感と、日常性・理性を超えたそれの「狂気」とでも言うべき事態。「続西方の人」で言及されたバランスの人ゲーテといわば対極に位置する人間の生き方。これが、芥川の追究したテーマといえる。

・わたくし自身が、特に感銘を受けたのは、「奉教人の死」であるが、ここでは、最後の部分を引用しておきたい。
「見られい。「しめおん」。見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、声もなく「さんた・るちや」の門に横はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、清らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。今は焼けただれた面輪にも、自らなやさしさは、隠れようすべもあるまじい。おう、「ろおれんぞ」は女ぢや。「ろおれんぞ」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、邪淫の戒を破つたに由つて「さんた・るちや」を逐はれた「ろおれんぞ」は、傘張の娘と同じ、眼なざしのあでやかなこの国の女ぢや。」

 命を賭けたロオレンゾの愛の行為が子供を火の中より救い出した。この愛が、ロオレンゾが実は女性であったこと、したがって、姦淫の罪はなりたたないことを顕わにすることになった。真理は、こうした理性を超えた行為を通してのみ奇跡的に顕わになると言うべきであろうか。関心のある方は、ぜひ、「奉教人の死」を一読いただきたい。
スポンサーサイト
プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
Translation(自動翻訳)
FC2カウンター
カレンダー
02 | 2012/03 | 04
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR