「正しい宗教哲学」(8)

 『宗教哲学序論』第三章一八のテーマは哲学的人間学であり、まず、哲学的人間学について、次のような簡潔な説明がなされる。

 宗教が「体験において又特に表現において生の他の領域と連関を保つ」ことに基づいて、「その連関を原理まで突き詰めつつ生の全体の構造より理解しようとする」こと(333)。つまり、「生の全体において宗教の占める地位を究める」(333)ことが宗教の哲学的人間学の課題である。

まずここで確認しておくべきことは(念のために)、次の点である。
・宗教哲学は、宗教的体験において指示される「神」自体を論じるものではない。それは、宗教的体験を哲学的に論究するもの、つまり、問われるのは「神」ではなく、神に体験的に関わる「人間」なのである。これは、波多野がカント以降の宗教哲学として提示する立場である。
・したがって、宗教は、人間存在(波多野の言い方では「生」。なお、波多野はこの意味で「存在」という用語も用いたいわけではない)の事柄であり、問題設定は、生の全体的連関における宗教(宗教の地位)ということになる。
・生が全体的な連関をなすことは、ここでは前提としておかれる。そして、この連関を考察する方法・視点が、「表現」あるいは「象徴」であり、表現論・象徴論は、哲学的人間学の重要な方法論となる。
・波多野が生の全体的連関において宗教と連関する「生の他の領域」として繰り返し取り上げるのは、文化(文化的生)における道徳であり、芸術や科学についても一定の言及がなされる。

 さて、『宗教哲学序論』における「哲学的人間学」についての説明(一八)は、それに先立つ類型論がそうであったように、哲学的人間学の方法論的問題にもっぱら言及されており、その内容的展開は別の書物を参照することが必要である。それは、具体的には、『宗教哲学』と『時と永遠』ということになるが、まとまった論述という点では、『時と永遠』が整っており、また波多野研究としては、『宗教哲学』と『時と永遠』における議論の展開(一貫性と相違)を重要になる。『宗教哲学序論』はまさに「序論」として書かれている。

 したがって、ここでの議論のポイントは、哲学的人間学の方法論的問題を明確化することを通して、その具体的な展開について方法論的に基盤を与えるということになる。
 波多野が取り上げる方法論的問題(「疑問」)は、次の二つである。

1.「宗教は生の全体より理解される」とする場合、それは宗教についての一定の理解を前提にしている。つまり、哲学的人間学による宗教の位置づけは、循環論である。
2.この循環論は、宗教を最初から「生の中心に置くこと」になるのではないか。つまり、それは、方法論的な「自己中心主義」であり、我田引水である。

 波多野の述べるように、これは宗教に限らず、生や体験を論じる場合、様々な仕方で現れる問題である。

 「1」の疑問に対する波多野の答えは明瞭である。「循環論」は行われており、行われねばならない。「体験と表現、全体と部分とは相俟ち相助けて相互に理解を可能ならしめ又促進する」(333)。波多野は、シュライアマハー以来の哲学的解釈学の議論に依拠しつつ、解釈学的循環の不可避性とその積極的意義を主張しているのである。もしろ、波多野が問題視するのは、生の連関を論じる際に「はじめより宗教を考慮に入れ」ないような循環論である(334)。波多野が実証主義の真理性を一面認めつつも、最終的にそれが誤謬であるとするのは、この点に関わっている。宗教に対する否定的な先入観に規定された研究態度が、宗教研究として適切かという問題である。もちろん、緻密な論究の結果、宗教(特定の、あるいは既存の)に対して否定的な結論に至ることは正当であるとしても、それは研究の発端において取るべき態度ではない。この点で、波多野は宗教現象学の原則に合致した方法論を採用しており、基本的にウェーバーの「価値自由」に同意している(「価値自由」がいかなる仕方で可能であるのか、あるいは可能でないのかは問題だとしても)。

 「2」に対して答える際に、波多野はまず、次の区別を主張する。対象の理解が要求する「当然許される又必要とされる態度」(334)と、研究者の人生観や偶然的事情が生じる「弱点」が「学説に影響する」といった場合の「極力避けねばならない」態度である。これは、パネンベルクが歴史研究を念頭に提出する区別で言うならば、方法論的現在中心主義と形而上学的現在中心主義に対応させることができるであろう。理解は、理解を試みる研究者の「現在」に規定されており、それを脱却することはできない(人間は神の立場に立つことはできない)。これは現象学的にも解釈学的にも了解できる議論である。しかし、自らの「現在」を唯一の絶対的な視点とすることは避けねばならない。これは形而上学的な現在の絶対化であり、しばしば研究者が陥る罠である(たとえば、聖書テキストの近代人としての読解はどのようなゆがみを生じてきたであろうか)。
 したがって、宗教を考察する場合、その宗教自体が「生の全体における」「中心的又最高の地位を要求するならば」、「その要求」を正当に考慮することが研究者には求められる(335)。
 ここで、「「その要求」を正当に考慮する」というのはわたくしの言葉であり、波多野自身は「その要求に従う」と書いている。ここに論究すべき問題がある。宗教の「要求に従う」というのは、その宗教の主張・要求についての「批判」を含むか否かである。たとえば、聖書はキリスト教共同体において歴史的に「正典」として読まれてきた。この歴史的事実は、聖書をキリスト教の文脈で理解する場合にまさに「正当に考慮すべき」ものである。しかし、研究者は、その研究において、正典であるとの要求を要求しなければならないであろうか。単純化して論じるならば、神学はそのような議論をなし得るであろうが、波多野の理解する宗教哲学は、この要求を共有することを必要としないはずである。「要求を含むことを発見する」(334)は、直ちに「その要求に従う」(334)を帰結しない。波多野の議論においては、「批判」「懐疑」が理解を構成するという点について議論が展開されていない。これは、リクールが、解釈学とイデオロギー批判という問題設定で追究した問題であり、ここに波多野宗教哲学を現在的な文脈で展開する方向性を見ることができるように思われる。
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