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「正しい宗教哲学」(9)

 今回は、『宗教哲学序論』第三章の「一八」の後半(335-338)の「宗教」に議論が移るまでを扱います。宗教の哲学的人間学の方法論的問題点(研究を規定する循環構造をめぐる疑問)に続いて、波多野は、哲学的人間学の「要点」を説明しますが、これが「一八」の後半です。しかし、「一二の要点」とあるように、あくまでも序論における説明にとどまりますので、本格的には、『宗教哲学』『時と永遠』を参照しなければなりません。

 議論の前半は、自然から文化、そして道徳を介して宗教へという生の展開の構図が辿られます。
・体験には「実在の体験と意味の体験」の二様があり、自然的生から反省を介した文化的生への上昇は、「実在の体験」の縮小を伴う。
 これは、実在・自然からの超越・自由という面を有する。
「実在の世界への没頭から観念の世界への自由なる飛翔」「実在は超越され克服される」(335)

・この自由・超越の完成は、人間的生の没落を帰結する。
「一切を自己のうちに併呑し尽くした主体はそれ自らは夢幻に化して壊滅に没するであろう」(335)
これは文化的生のアポリアとでも言うべき事態であり、波多野の人間学の重要なポイントとなる。

・われわれは、「再び実在へと」帰ることが必要である。ここで、われわれを「実在へと呼び戻す」のが、道徳の役割である。波多野は、ここで道徳に重要な役割を与える。
 道徳は、「文化の世界に属しながら」、「実在者(人格)と実在者(人格)との共同において」成り立ち(336)、自己と実在とを自然的生とは別の、より高い次元で媒介するものとなる。
「自然的実在の処理及び克服の基礎の上に観念的存在を介して高次の実在がそれ自らの姿を現わす」(336)
 波多野において、道徳は自然的生と文化的生とを基盤にしつつも、人間的生を人格へとさらに上昇させる役割を担っている。おそらくここに、人格の成立と人格相互の共同(生の共同)の成立との循環構造・相関構造が存在し、その最初に契機が「道徳」であると言うべきかもしれない。
 文化、道徳、そして宗教という一連の生の諸契機は、明らかにカントに依拠しつつも、カントを超えて人間的生を新たな方向へと展開するものとなる。ここで、波多野のとティリッヒ(まとまったものとしては『組織神学』第三巻)の比較は興味深いテーマとして浮かび上がる。

・宗教はこの道徳の徹底化である。
「この新しき生を徹底させたものが宗教である。宗教の本質は主体(自我)と絶対的実在者との生の共同に存する」、「宗教においてのみ吾々は真に実在と呼び得るもの観念化されざる純粋の実在に出会う」、「「絶対者」は厳密には宗教の中にのみ住み得る概念である」(336)、「絶対的実在者に出会う唯一の場所は宗教である。」(337)

 徹底化とは、一方で連続性を示唆しつつも、他方では差異性、さらに断絶をも内包する。以上を確認した上で、再度、宗教と道徳との関係が問われねばならず、それは、象徴と観念との関係の議論にも関わることになる。このポイントは、次回確認したい。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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