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野呂芳男(1)

 このカテゴリ「キリスト教研究の軌跡」では、これまで、わたくしが実際に授業を通して教えを受けた、森田雄三郎、佐藤吉昭、今井晋、小川圭治の諸先生を取り上げてきた。この4先生はいずれも比較的最近ご逝去された方々であり、その点で記憶に新しいこと、またその学問的業績がいずれも立派な先生方であることが共通していた。

 しかし、直接教えを受けたというわけではないが、わたくしが著作などを通して学ばせていただいた諸先生方は、そのほかにも多く存在し、ぜひこのブログでご紹介したいという方も少なくない。その観点から、何人かのキリスト教研究者を取り上げることにしたい。今回から数回にわたって、まず野呂芳男氏を取り上げることにしたい。

 野呂先生を取り上げるのは、最近行った研究発表で、野呂先生を取り上げる機会があったからであり、その関係で、野呂先生の著作の順序としては比較的後期の作品である、野呂芳男『キリスト教と民衆仏教──十字架と蓮華』を紹介しようと思う。

野呂芳男
『キリスト教と民衆仏教──十字架と蓮華』
日本基督教団出版局、1991年。

 今回の研究発表のために抜粋集を作成したので、それを以下に掲載したい。

「一つは、神学は人間の解放にかかわる、という確信である。伝統的に神による救いと言ってきた事柄は、解放以外の何ものでもない。そして、解放には幾つかの次元がある。政治的な解放、経済的な解放、社会的な解放、性差別よりの解放、非本来的な自己よりの解放などであって、実論論的神学はこれらすべての解放にかかわらねばならない。そして、キリスト教と他宗教とのかかわりは、実存の生きる姿勢と深くかかわるところの宗教的な解放、真に深く自己を生かす宗教の中へと日々解放されて行くことと結合している。」(3-4)
「第三の確信は、民衆宗教こそ、その納得できない多くの慣習の奥底で、この愛を至上のものとしてあこがれ求めている宗教性であるということである」(4)
「浄土仏教との対話こそ不可欠ではないかと私は考えてきた」「カブ氏の『対話を超えて』」(44)
「実存レベルでの宗教心を、この対話の中に挿入して来なければならない」、「代襲今日内の集団の郷里と実存レベルでの個人の信仰との間の緊張」(45)
「現世利益の信仰世界」「われわれの民衆の間での信仰は混淆されている」、「こういう混淆宗教においては、勿論のこと個人の信仰の方が代襲教の集団の信仰よりも優先されているのである」(46)
「これ迄は仏教とキリスト教というような二つの大宗教を両極に据えた、客観的な教理上の対話が学問の世界を賑わしてきたのであるが、個人信仰の多様性や民衆宗教をもう一つの極とする三角形の対話を展開する必要があるのではないか」(47)
第四章「十字架と蓮華」(124-235頁)は、野呂と友人Aとの対話の形で、この三角形の対話を具体的に展開している。
「カブが『対話を超えて』の中で結論として出しているものも仏教とキリスト教との両方に対して相手と混淆せよ、ということに外ならない」(48)
「勿論カブは親鸞の方便法身の思想を踏まえて」、「完全なるもの(阿彌陀如来)が不完全な者(菩薩)の姿で現れた訳であるが、それは、そうすることによって、人々が迷いの世から涅槃へと仏に救済された行く道程を具体的に示すためであった、というのである」、「阿彌陀如来の法蔵菩薩への受肉」(49)
「キリスト教の受肉神話は歴史に根差しているのである」(50)、「受肉の一回性」(51)
「浄土真宗自体の中で、阿彌陀如来、真如、涅槃を人格的な象徴で表わさざるを得ない要素と、無や空として人格的なものを排除する方向とが互いに緊張関係を保っているのではないかということである」(51)
「阿彌陀如来の神話に欠けている歴史性を補うものがナザレのイエスなのだから、浄土真宗の信徒たちもイエスをいつの日にか救い主として受け入れて貰いたいというカブの希望」、「キリスト教を統合の原理やホワイトヘッド哲学に依拠して理解しようとしても、私にはそういう媒介概念では漏れてしまう要素がキリスト教にはあると思える。それらの要素がまた、キリスト教の核と強く結合したものであると思えるのである」(53)
「自分の信仰の核は、自分で発見しそれに賭けなければならないものであり、他人や大宗教が作ってくれるものではない。たまたま私の場合は、核がプロテスタントのキリスト教なのであり、浄土真宗からも栄養分をいただいたということである。こういう仕方で混淆したからと言って、プロテスタントの信仰の純粋性が失われた訳ではない」、「何も聖書に付加してはならないという論理は説得力がないからである。問題は付加されるものが、その信仰の核と矛盾せず、その信仰と有機的に結合し得て、その信仰を豊かにするかどうかである」、「実存レベルの民衆宗教の現世利益信仰に見られる仏教と、無や空に基づいて現世からの離脱を説く高遠な仏教哲学との間の乖離」、「涅槃と現世利益」(55)
「キリスト教のほうがこういう民衆宗教との靱帯を持ちやすいように私には見える。生きることへの執着が現世利益の追求の土台をなしているのだが、その執着は断って切れるようなものではない」、「キリスト教は生きることへの執着を基本的に肯定し、生きることのもつ深みや広がりを自覚させようとする」(57)
「止むに止まれぬ仕方で、愛さないわけには行かない人間の心」「疑いと迷いで深く傷つけられはしても、それには何とでも理屈をつけて、神や仏を愛することを止めようとはしない」(58)
「いわゆる神義論と呼ばれるもの」「人間がどうしても、いずこかに愛の神が欲しかったからではないのか」、「人々を愛し、自分の後生に執着するこういう人々が、御利益信仰の持ち主として軽蔑され神社や寺院や教会から見捨てられるなら、私もキリストの共にこれらの聖域の外にいることにしよう」(59)

W・C・スミスとJ・ヒック
「スミスは、世界の宗教史が一つのものであることを示そうとしたと言えよう」、「『聖人伝』とロザリオ」(62)
「諸宗教は互いに交流してきたし、また、交流し得るものだという彼の主張」(65)
「人類には一つの宗教史しかない」(68)
「トレルチ」「宗教史を複数の宗教圏の個別な歴史の集合体と考える」(69)
「トレルチが歴史における個別的なものの重視、分析的な視点に立つとすれば、スミスは総合への視点に立っている」(70)
「複数の信仰が存在するのではなく、一つの信仰がそれぞれの伝統の中でキリスト教的な、イスラム的な、仏教的な形態を呈するのだ、と言う」、「一つの世界宗教史の神学」「比較宗教学的神学」(73)
「比較検討の具体相」「宗教の検証原理」(75)
「指し示す強度に関し、両象徴間には程度の差がある筈である」(76)
「私は絶対という概念は、それ自体に対し他のものが並存することを許さないところの哲学的概念であって、キリスト教の愛と矛盾する独裁的概念であると常々考えている」、「このような統合の理念は、現実の中にある統合できない多くの不条理、宗教史の中にもある諸々の不条理に目覚めていない楽観主義だと言わざるを得ない」(77)
「ヒックのこの批判は正しいと私も思うが、しかし、他宗教にこのような価値を認めることは、どの宗教も等価値で在るということにはいきなり繋がらない筈である」(85)
「人格神と(非人格的な絶対たる)無や空が、スピリチュアリズムを媒介にして補完する傾向を見せているのである」、「十九世紀にアメリカから出発し、これはキリスト教の土壌に育ちつつ、ヒンズー教や仏教の影響を受けたものである」(86)
「今日、究極的なものとの触れ合いは、個人の魂の奥底においてなされるべきものであって、もはや集団を単位としたものではない」、「集団は個人に対して究極的なものを代表するものではなく、集団に属することが個人の信仰生活に益となる限り、それに所属してもよいところの便宜的なものとなる」、「生きて行く方便の場」(118)
「われわれは集団に対しては、忠誠心をもって臨むべきではなく──われわれが忠誠心をもつべきなのは、究極的なもの(神)に対してだけである──妥協をもって接しなければならない」、「普遍→個→種なのである」(121)

 <注目すべきポイント>
・宗教間対話、特にキリスト教と仏教との対話について、第三の極として「民衆宗教」を設定していること。つまり、対話を、キリスト教、仏教、民衆宗教の三つの極として捉えることを提唱している。また、キリスト教と禅仏教という問題設定に対して、浄土教仏教の重要性を指摘している。
・民衆宗教に対するよくありがちな御利益宗教・宗教混淆という批判(信仰の純粋性という観点からの批判)を越えることが試みられている。
・宗教を解放という視点で、しかも多次元的な解放として捉えている。これは、従来の土着化論に対する批判的視点という点で、ピエリスのアジアの解放の神学と共有する論点を含んでいる。また、解放の中に、「非本来的な自己よりの解放」が含まれることは、野呂先生の実存論的神学の主張が現れており、また、それが他の諸解放の次元との連関で捉えられている点に、同じ実存論的神学でも、ブルトマンのそれとの違いを確認することができる。
・現代の宗教性を、スピリチュアリズムとして、「個」という視点で捉えていること。これは、本書でも取り上げられるトレルチ(神秘主義類型の近代以降の展開)やヒックにおいても確認できる論点である。
・キリスト教と諸宗教との関わりをめぐるトレルチ、スミス、ヒックの、それぞれの分析と比較は、きわめて明解で説得的である。特に、トレルチとスミスとの比較、ヒックにおける検証原理の問題点の指摘などは、今後さらに研究されるべき重要な問題提起である。ヒックは、An Interpretation of Religion (1989)の第三部で、ま諸宗教間の価値的比較の問題を「基準論」(Criteriological)として展開しているが、野呂先生の指摘は、このヒックの議論との関わりで議論されるべきであろう。「信仰の核」という論点に、実存論的神学の立場が現れている。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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