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野呂芳男(3)

 野呂先生の思索を遡る形で、今回は、1990年代の前の時期(1970年代)を取り上げます。実存論的神学の確立期の次の時期でもあります。わたくしが野呂先生の著作に触れたのは、この時期であり、取り上げる次の文献は、最初に読んだ著作で(出版の2ヶ月後)、ティリッヒ研究を本格的に開始する際に、参照したものの一つです。

野呂芳男
『神の希望』
日本基督教団出版局、1980年。



第一部 現代の神学的状況──神認識と悪をめぐって
第一章 キリスト教とニヒリズム──非神話化論とプロセス神学をめぐって
第二章 キリスト教とニヒリズム──実存論的神学と女性解放の神学をめぐって
第三章 悪の存在と存在論──ティリッヒ神学とバルト神学をめぐって

第二部 神と希望
第一章 キリスト教と神話
第二章 永遠者なる神
第三章 「神の死」と神
第四章 宿命の物語
第五章 歴史と希望

あとがき

 この時期の野呂先生の思索は、近代また現代のキリスト教思想の可能性を、ブルトマンの非神話化論や実存論的神学を意識しつつ、いかなる形で展開可能であるかをめぐっていたように思われる。
 第一部の諸論考は、ニヒリズム(第二部では「神の死」)と悪というテーマで、現代神学の諸動向が検討されており、本ブログでも紹介してきた森田雄三郎先生の諸論考とともに、錯綜した神学動向(バルトとティリッヒ以後)を理解する上での手引きとなるものである。こうした優れた見取り図なしには、現代神学を捉えることは困難である。第一部のニヒリズムと悪の問題へのアプローチは、再度、取り組まれるべき宗教思想のテーマであり、野呂先生から改めて学ぶべき点は少なくない。

 第二部では、バルト、ブルトマン、ブルンナーから、アルタイザー、ハミルトン、コックス、またベルジャエフ、ヴェイユ、テイヤールまで、多くの思想家を取り上げつつ、議論が展開されているが、わたくしが最も鮮明に記憶しているのは、第四章の最後に扱われた、ティリッヒについての論述である。「ティリッヒと死」という重いテーマを論じた最後に、「ティリッヒは愛の人格的逆説を、空間象徴の同一性に転換してしまっている。むしろ、人格的な神を土台として考えたほうが、神との融合において失われない個を十分に語ることができるのではないだろうか」(400)と指摘されている。考えるべき問題であり、もし、波多野精一がティリッヒの永遠に関する議論を読んだならば、どのように応答しただろうかという問いと合わせて、追求してみてはどうだろうか。

 今回、改めて、読み直して気付いたことであるが、序に次のような言葉が見られる。

「この頃は私共の国でも、体制の視点から見られたこれまでの歴史をもう一度民衆の立場から見直そうという運動が、諸処方々で活発になされており、良い傾向だと私も喜んでいるのであるが、民衆史の中でも、特に私は民俗信仰に関して教会はもっと関心をもつべきであろうと考えている。本文にも述べているように、パウル・ティリッヒ教授はその死の直前まで宗教史学的神学とでも言ってもよいものに心を傾けていた。その方法論は正しかったように思う。」(4)

 民衆宗教を明確にテーマ化した研究へ向かう動きは、少なくとも1970年代の思索から始まっていたわけである。
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プロフィール

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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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