FC2ブログ

野呂芳男(5)

 野呂先生と言えば、実存論的神学。その中心的な文献である、『実存論的神学』『実存論的神学と倫理』は、後日紹介するとして、今回は、すでに紹介の『キリスト教の本質』(1995年、松鶴亭)から、「四 実存論的神学」を取り上げたい。

 野呂先生の実存論的神学は、ブルトマン、マイケルソン、ティリッヒ、ルイスという神学者の思索の影響を受け、それを独自の思索として展開したものである。

「実存論的神学とは、実存が真に生きることができるのは、神の言との出会いからであるという事情に土台を置き、できる限りしの事情からすべてを理解しようとする神学である」(33)

 これは、もっともコンパクトな説明であるが、神の言葉との出会いにおける決断において人間実存の本来的な生き方が可能になるという核となる部分については、実存論的神学の典型と言えるブルトマン神学と、野呂神学とは基本的見解を共有している(だから、実存論的神学という名称が選択されたわけである)。
 しかし、野呂先生がブルトマンに対して抱く不満は、ブルトマン神学の抽象性に向けられている。それは、「一種の禁欲主義」とでも言うべきものを帰結するその「前理解における実存の理解が余りにも狭い」ということ(37)、また、「実存を生かす主体的真理を浮き彫りにした功績」にもかかわらず、「ブルトマンの非神話化論が実存を、それを取り巻く新約聖書の枠組みから抽象し」「抽象されたものをいつまでも抽象されたままで置くこと」(51)、この仕方での「イエスの普遍化」が「あの時あの場所で起こった事件の持つ固有性を薄めてしまう」(51)ということにおいて、確認できる。

 以上は、ブルトマン以降、特に現代のキリスト教思想における神話論の再考という問題的にも関わる問題であるが、野呂先生は、このブルトマンの狭さ・抽象性を、ルイスの「プラトン的キリスト教」によって乗り越え、自らの実存論的神学の構築を試みている。その背景にあるプロセス哲学のもつ文明論的な広がりを、実存論へと接続する試みとも解釈できるであろう。そのために、野呂先生が提唱するのが「次元的思考」(37)であり、それは、神学が政治学、社会学、環境学、自然科学、天文学などの諸科学と折衝すること(干渉することではなく)を可能にする思考方法であり、「開けゆく宇宙」の中でキリスト教神学を論じようという議論へと展開することになる。ブルトマン、ホワイトヘッドをめぐるこうした神学的思索は、野呂先生と同様に1950年代から60年代のアメリカ神学の動向を意識して神学を構築しようとした森田先生の思惟とも通じるものである。
 また、このような点から、野呂神学は、本ブログのテーマと密接な関わりがあることが明らかになる。キリスト教思想は現代の諸学といかなる仕方で生産的な関わりを構築しうるのか。本ブログは、これをキリスト教思想の伝統を踏まえ、自然神学と表現しているのである。

 次元的思考ということで、思い起こされるのは、晩年のティリッヒの思想である。野呂先生のティリッヒ論は、1950年代の『組織神学』第一、二巻の議論を中心としたものと思われるが、50年代の後半から60年代にかけて、ティリッヒは生の次元論(多次元的統一体としての生)を展開し、自然科学と神学との関係について、これまでのプロテスタント神学の狭さを超える試みを行っている。これは、野呂先生の次元的思考と基本的に合致するはずのものであり、この点に考察が及んでいない点が惜しまれる。
スポンサーサイト



プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
Translation(自動翻訳)
FC2カウンター
カレンダー
05 | 2012/06 | 07
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR