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京都ユダヤ思想学会にて

 昨日は、神戸松蔭女子学院大学で、京都ユダヤ思想学会、第5回学術大会が開催された。わたくしは、午後の講演・シンポジウムからの出席になったが、ユダヤ思想をめぐる多岐にわたる議論がなされ、出席者はそれぞれ多くを学び知的満足を味わうことができたものと思われる。開催のために働いていただいた方々の労に感謝したい。

 今回の学術大会の統一テーマは、「聖書解釈 ユダヤ学と聖書学の立場から」であり、午後のプログラムは、次の二つの講演からなる第一部「公開講演」と、続く第二部「講演に関するディスカッション」として、午後1時から5時まで行われた。

公開講演
1.Avidov Lipsker(イスラエル・バルイラン大学)「旧約聖書と現代ユダヤ文化:魚(鯨)の腹中における神意と贖い──テストケースとしてのヨナ書」
2.勝村弘也(神戸松蔭女子学院大学)「聖書学は教義から自由か?」

講演に関するディスカッション
ディスカッサント
・大澤耕史(京都大学大学院)
・武藤慎一(大東文化大学)
・北博(東北学院大学)
・山本伸一(学振PD)
・上村静(東京大学)

 わたくし自身が、午後のプログラムの間に考えたのは、次の点についてである。
・今回のリップスケル教授のヨナ記をめぐるユダヤ教とキリスト教との対比は、本ブログでも以前紹介したキャサリン・ケラーの議論と結びつけるとどうなるだろうか。
・思惟方法は自己同一性というレベルでのイデオロギー(社会的構想力)の現れてある。
・思惟方法というメタレベルでの議論自体が特定の伝統の文脈に依存していないか。メタレベルの議論は、個々の具体的現象のレベルでの議論との連関を確認しつつ展開されねばならない。
・グノーシス、歴史、解釈学、存在論などといった一般化の傾向が顕著な概念・用語・方法・視点は、それが成立した特定の文脈とそれを大幅に超えた一般化との双方のレベル、そしてその媒介を行う諸レベルを区別して議論しないと、混乱が生じる(あるいは議論が飛躍する)。多義性の処理を適切に行うことが必要である。
・聖書解釈と共同体の関わりについては、共同体の形成過程のプロセスが問題になる。共同体を形成するプロセスにポジティブに作用する聖書解釈。
・近代的学という枠組みを超える「学」とは何か。近代人にそれは可能か。「解釈にバイアスが伴う」という議論のバイアスをどう解消するのか。あるいは、客観性というのは思惟のどのレベルの事柄なのか、客観性は「ある」「ない」の単純な二分法で処理できるのか。
・解釈の諸共同体は何かを共有するのか。聖書テキスト? 人間性?

 小規模な学会は、小規模ゆえの悩みがあるが(財政、運営の閉鎖性、持続可能性・・・)、集中的な討論の場とその場を共有しているという感覚(リンゼイ的には、「集いの精神」)が有する利点を生かしつつ、常に外に開かれることを意識していることが大切である。学会も5年を経過すると、良くも悪くも独特の「文化」が定着することになる。それを捉え返して次の展望する時期にきているのかもしれない。
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プロフィール

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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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