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キリスト教研究と教会

 昨日、紹介の京都ユダヤ思想学会学術大会のテーマ「聖書解釈 ユダヤ学と聖書学の立場から」にも含意されたいる問題に、「キリスト教研究と教会」の関係をいかに理解すべきかという問いがある。もちろん、古代から繰り返し問われてきた問題であるが、特に近代以降、深刻な問いとして、キリスト教研究と教会、双方に突きつけられることになった。学問としてのキリスト教研究の原理としての自律と、教会的な伝統・権威との対立構造である。これは、キリスト教研究内部においても、神学と聖書学との対立・分裂として顕在化しており、議論は、しばしば不毛な仕方で、双方に不満が残る仕方で提示され、繰り返され、そのつど思考停止で終わることになる。

 こうした問題は、わたくし自身も、以前に日本基督教学会事務局を京都大学で引き受けた際に、感じざるをえなかった点である。学会内部の様々な組織において、地域、中心的な研究機関(大学)などのバランスを取ることが必要になるが(まったくこれが現実であり、日本のキリスト教研究で困るのは、ジェンダー・バランスが崩れているという点である。主要な組織にあまりにも女性が少ない。これは日本のキリスト教の構造的な問題であろう)、考慮すべき事項の中に、教派的なバランスが存在しており、これは、「キリスト教研究と教会」という問題の一つの現象形態にほかならない。

 実は、昨日、大阪の教会にこの4月から牧師として赴任してきた友人(日本キリスト教団 大阪大道教会、森岡高康牧師)の牧師就任式に出席した。就任式は厳かな中にも心温まるものであり、関わりのある多くの方々が列席していた。こうした教会の現場と、わたくしが日頃関わっている大学でのキリスト教研究・教育とは、どのような関わりにあるのだろうか。これが、昨日、心をよぎった問いである。あせって、答えを決めねばならない性質の問題でないが、忘却してよい問題でもない。

 たとえば、牧師の説教にとって、キリスト教研究はいかなる関連にあるのが望ましいのであろうか。わたくしの親の世代の牧師には、わたくしの知る限り、学者・研究者としても十分な学識のある方が少なくなかったように思われる。実際にどれほど読んだかは別にして、キリスト教の専門書や注解書を多くそろえている牧師は珍しくなかったのではないだろうか。学会に属していなくても、こうした牧師は、キリスト教研究と教会の間で思索し、説教していたはずである。しかし、出版社によると、キリスト教研究の専門書や学問的注解書をそろえる牧師は少なくなってきているとも言われる。これは、いかなる問題を生じることになるのだろうか(聖書学的にあやしい議論を必要もなく説教に持ち込むというのが、いわば最悪のパターンの一つである)。牧師も教会も忙しすぎるということであろうか。以前、所属教会の中で読んだ、E.H.ピーターソン『牧会者の神学』(日本基督教団出版局)を思い出される。瞑想と思索は説教にとって不可欠なはずであり、キリスト教研究とはそれに寄与するだけの可能性を有しているのではないだろうか。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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