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イデオロギーとユートピア問題の射程

 この年度の京都大学における特殊講義では、「キリスト教と政治思想」というテーマを、イデオロギーとユートピアという問題から論じているが、これまで、直接この問題連関との関係を意識してこなかった諸問題が、イデオロギーとユートピアという視点を含めた理論的な展開が可能であることがわかってきた。こうした議論において、主に依拠しているのは、ティリッヒとリクールであるが、議論はかなり面白くなりつつある(講義している本人が言うのも何ではあるが)。問題連関の概要は次のように見通しとして示される。


 リクールの議論は、イデオロギーとユートピアについて、次のように展開される。

・近代の世俗化は、信仰に対して、イデオロギーかユートピアかの問題状況を生み出した。信仰は宗教批判を受け、単なるイデオロギーあるいは単なるユートピアといった批判にさらされている。「宗教はアヘンだ。」
・信仰がその本来性を回復できるとすれば、信仰はこの二者択一を拒否し、イデオロギーとユートピアの動的連関(弁証法的関係)を再確立する必要がある。

 このためにリクールは、イデオロギー概念を三つの層(次元)に掘り下げて分析し、さらにイデオロギーに対するユートピアの優位性を明らかにしようとする。

・体系的歪曲としてのイデオロギー(イデオロギーの表層)。マルクスのイデオロギー批判が主に扱っているレベル。正統マルクス主義では、このイデオロギーを下部構造に規定された上部構造として、因果的なモデルで説明しようとする(イデオロギーの対極は科学である、という議論)。しかし、階級的利害がイデオロギーを生じるという事態は、因果的なモデルでは説明することができず、それは動機付けという別の議論を必要とする。
・正統化としてのイデオロギー。利害とイデオロギーという問題は、動機付けの視点を必要とするが、それは、マックス・ウェーバーの正統化の議論を参照することを要求する。支配階級は自らの権威を民衆が承認することを要求するが、支配者の要求と民衆の表明する信頼との間にはギャップが存在し、そこに正統化が必要になる理由が存在し、イデオロギーはこの正統化というレベルで機能する。
・自己同一性としてのイデオロギー(イデオロギーの深層)。正統化という問題は、要求し承認を行う主体としての支配者(階級)と民衆の存在(しかもそれぞれが自らが何者かを理解し他者にその承認の共有する存在者の成立)を前提とする。イデオロギーは、この自己同一性(それを可能にする人格性の統合機能)という土台において、正統化を行い、現実を歪曲するのであり、そもそもイデオロギーはこの自己同一性を可能にする統合機能として採用しているのである。この自己同一性というイデオロギーは、象徴体系を媒介にして成立するものであり、ここで、リクールはギアーツを参照するように要求する。人間の自己同一性は行為連関において機能し、この行為は、象徴的に媒介された行為だからである。ここでイデオロギー論はレトリック論と相関することになる(ケネス・バーグ)。

 こうしたイデオロギーは、基本的に保守的な機能を持つことになる(これは、ティリッヒがアウグスティヌス的な神の国解釈として特徴づける事柄にほかならない)。イデオロギーは、自己同一性を可能する社会的構想力の現象形態であり、その性格は保守的である。人間は、個人も共同体も、その自己同一性を保持することを要求し(自己であり続けようとする)、それがイデオロギーの諸機能を支えるものなのである。
 それに対して、ユートピアは、社会的構想力の革新的な機能に対応する(アウグスティヌスに対するフィオーレのヨアキム的な歴史神学)。ユートピアについても、次の三つの層が区別され、議論は掘り下げを要求する。

・病理としてのユートピア(表層)。ユートピアは非現実的な幻想を夢見させることによって、適切な実践・行為を不可能にする。ユートピアは無力であり、幻滅を引き起こすだけである。これはティリッヒがユートピアの非真理と呼ぶものである。
・批判としてのユートピア。しかし、ユートピアの生じる夢は、現実を批判的に相対化することを可能にする。ユートピアは、正統化のイデオロギーが前提にする権威の要求と信頼とのギャップを暴露する。
・可能性の領域を開くユートピア(深層)。ユートピアは自己同一性としてイデオロギーに対して、別の自己の可能性をイメージによって開示し、自己同一性の新たな別の可能性を提示する。社会的構想力は、社会的の共同性のレベルで機能し、自己同一性を保持しあるいは変革するように作用する(別のレトリックに属する)が、ユートピアは、自己のまさに真性の可能性であるという点で、ティリッヒの言い方を用いれば、真理である。

 ティリッヒのユートピア論(1950年代の)は、ユートピアの非真理と真理の両義性という洞察に基づいて、ユートピアが常にユートピアの非真理に頽落すること(=ユートピア主義)を確認して上で、この両義性の追求が、ユートピアの深層から可能になる(=ユートピア精神)ことを主張する。

 リクールが、イデオロギーとユートピアの二者択一を拒否する信仰と述べるのは、ティリッヒのユートピア精神が指示する事態に対応する。そして、こうしたユートピア論は、ティリッヒのラインで言えば、若きヘーゲルにおける「生の弁証法」の議論へと遡及するものである。生が生として存立できるのは、生が常に変化するにもかかわらず自己同一性が可能なような仕方で変化が行われる、つまり変化が自己同一性の回復を帰着するからであり、同時に、自己同一性は静的なものではなく変化にもかかわらず、あるいは変化を媒介とした同一性だからである。生命は、変化において同一であるからこそ、生きているのである(自己に回帰しない変化も、変化しない同一性も、いずれも、「生」ではない。子供は大人なることで自分であり続ける)。イデオロギーに対するユートピアの優位は、この生の弁証法についての一つの解釈であり、過去に対する未来(波多野的には将来)の優位と解することができる。これはキリスト教的あるいは聖書的と言うべきかもしれない(創造に対する終末・救済の優位)。

 以上が、イデオロギーとユートピアをめぐるリクールとティリッヒの議論の核心点であるが、この問題は、信仰、自己同一性・人格・自己、レトリック、構想力といった一連の議論への展開を引き起こすことになる。ティリッヒの信仰論において、信仰とは究極的関心として概念化されたが、これは、象徴において構成された自己同一性という分析を可能にするものであった。そして、それは、民族という問題において、「社会的」構想力として論じられるようになる(ここで、ティリッヒはハイデッガーを援用し反論している)。わたくしは、この信仰論・象徴論という問題を、一つの問題として長年論じてきたが、今回の特殊講義において、それが、イデオロギーとユートピアという問題群と緊密に連関していることが見えてきた。キリスト教と政治思想というテーマは、こうした問題連関において理論化し、具体的な諸問題(聖書解釈の範囲でも、終末論や知恵は、この問題圏の中心を成している)へと展開されるというのが、現時点でのわたくしの展望である。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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