心と社会、そして宗教

 先日、本ブログでも紹介した『脳科学は宗教を解明できるか?』春秋社などからもわかるように、現在、宗教研究では、脳と心という観点から宗教に実証的にアプローチするという試みは盛んになりつつある傾向と言える(日本は未だ、欧米は既に)。ここで、問われるべきは、心をめぐる近代的モデルの限界である。それは、いわば心のアトミズムとも言うべきものであり、心を個(個人)的事柄と考え、社会的共同性からいわば分離し取り出し分析(内省)できるかのような仕方で扱う態度である。これは、哲学的にいえば、「われ」と「われわれ」の関わりをどのように捉えるかということであり、哲学はこの点について、弁証法的という漠然とした概念装置しか持ち合わせてこなかったように思われる。過去の哲学の心の議論びは、この点でかなり素朴なものが多く見られる。これは、近代の宗教学あるいは神学でも同様の事態であり、森田雄三郎の次の指摘はこの点に関わっている。

「それは、元来「単独者」としての現存在を意味した「実存」なる語が、この「単独者」において真の意味を回復されるはずの共同体の意味、この共同体と実存との関係を明らかにされぬままに、今日の一般的傾向として歴史的個としての人間にも、共同体的生としての人間にも、無造作に適用されるきらいがある。しかし、「わたし」と「われわれ」は、それほど単純に同一視されたり、単純に相互転換されるとは、考えられない」(『キリスト教の近代性』創文社、1972年、512頁)。

 現代の脳科学も、個としての脳から研究をスタートしてわけであるが、研究者の中には、孤立した脳から、ほかの脳との相互コミュニケーション・相互作用にある脳へと視野を拡張する必要があるとの認識が深まりつつある(以前に、ある研究会での耳にした議論である)。いわば脳社会学とでも言うべき問題領域であり、脳・心を現実的なレベルで問題にしようとする場合、当然とも言える問題の進展である(もちろん、これがすでに確立しつつある研究領域であるとか、近々成果が得られる見込みであるとか言うわけではないが)。

 こうした点を念頭に置くとき、次の文献は興味深く思えてくる。これは、現代哲学における応用哲学・実験哲学というして展開されつつある議論であるが、従来哲学が神学と諸科学との媒介に大きな寄与を行ってきたことを考えれば、現時点での成果の評価は別にして、注目すべき動向と思われる。哲学も様々な専門的学・科学と積極的にコラボしつつある。

菅沢かおり・戸田山和久編
『心と社会を科学する』
東京大学出版会、2012年。

はじめに──出会いと発端

第1章 社会心理学と科学哲学のコラボレーション
第2章 「成功」した学問としての社会心理学
第3章 個人の心を扱う方法論的限界と「集団心」の可能性
第4章 「集団錯誤」の呪縛からの解放への道標
第5章 社会心理学によそから期待したのだが
第6章 集団心に形而上学的問題はない、あるのは方法論的問題だけだ
第7章 科学哲学者が社会心理学に方法論を提案したら:予告編
第8章 測定ネットワーキングとしての社会心理学:本編
終章 コラボレーションのゆくえ

人名索引
事項索引

執筆者は、
唐沢かおり:はじめに、1・2・3・終章
戸田山和久:はじめに、1・5・6・終章
山口裕幸:4・終章
出口康夫:7・8・終章

 個と社会という広がりの中に、宗教という問題は本来位置しているはずである。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、今後開設の別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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