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翻訳をめぐって

 昨日の本ブログでは、キリスト新聞に掲載の、山浦玄嗣氏によるケセン語訳聖書の記事を紹介した。この聖書翻訳は
、「教会にしか通じない言葉は一切使わない」という方針によるものであり、例えば、「心の貧しい人々は、幸いである」は、「頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ」とケセン語訳されることになる。
 本ブログではこれまで聖書翻訳論に関連してさまざまな議論を行い、あるいは紹介してきた。この山浦氏の翻訳論について、コメントすることによって、今後の議論の展開に生かすことを試みたい。

・山浦氏の翻訳の基本方針は、それ自体、一つの可能で合理的な立場であり、その結果提示された訳文も参照できる水準と言える。しかし、ここから考えるべき問題もさまざまなに浮かび上がってくる。

・「教会にしか通じない言葉は一切使わない」は、適切か、あるいはいかなる場合に適切か。
 これについては次の点が問題になる。
 最大の問題は、翻訳文の読者としてだれを想定したいのかである。あるいは翻訳文がいかなる状況で使用されると考えられているのかである。それによって、この方針の適切性は変化する。おそらく山浦氏は、教会外のいわゆる一般的日本人を読者として想定し、そうした人々によって理解しやすい(誤解の生じない)訳を試みているように思われるが、こうした読者が聖書翻訳で念頭に置かれるべき読者とはかぎらない。これは、しばしば教会の礼拝で朗読されることを念頭に訳が行われるといった仕方で表明される場合が典型であるが、この場合、「教会にしか」の「しか」は別にして、「教会でよく通じる」という方針は十分に可能であり、それは教会外ではしばしば「通じにくい」ものになる可能性がある。これは、たとえばキリスト教についてしばしばなされる、キリスト教は日本の宗教文化に異質であるとの議論と結びつければ、異質なキリスト教的な宗教テキストはその本質に日本的な言語表現によって異質なものを含まざるを得ないということになるはずである。過去の、たとえばキリシタン訳を考えれば、デウス、カリタスといった基本中の基本の言葉(基本語)においての訳語は困難な問題に遭遇することになった。この際に、あえて日本語に訳さず、音をカタカナ表記するという試みがなされたわけである。
 この関連で次の点も問題である。聖書の言葉が「神の言葉」であるとすれば、聖書テキストは何語にとっても、その内部に本質的な資質性を抱え込んであるはずであって、それを教会外でも通じる言葉に置き換えることはそもそも適切なのであろうか。わざわざわかりにくい表現を選択することを奨励するわけではないが(これは翻訳の担う役割に矛盾する)、教会にしか通じない言葉は「一切使わない」というは、特に聖書翻訳においては適切な方針なのであろうか。「しか」と「一切」との中間において現実の翻訳はなされるということになるのではないか。

・言語の変化を念頭におくとどうなるか。
 今回はケセン語への翻訳が問題になっているわけであるが、ケセン語にかぎらず、多くの生きた言語は変化のプロセスの中にある。それには、時代的な変化だけでなく、地域的な変化や、世代間の変化も含れており、翻訳はこうした変化に対して、暫定的なものに留まらざる得ない。もう二度と訳し直しの必要のない完璧な日本語訳の決定版などどいったものは、現実の翻訳のめざすべき理想となり得るだろうか。しかも、この変化は翻訳というプロセスが引き起こすことも少なくない。特に聖書翻訳というのは文化に変化を生み出し新しい文化を生み出すような作用を伴っていた。「神」「愛」という訳語を通じて聖書翻訳が日本語にもたらした変化は決して過小評価されるべきではない。「教会にしか通じない」訳語が日本語に変化を生じ、それによって「通じる」ものとなるという事態が念頭に置かれねばならない。聖書翻訳は新しい日本語文化を創造するプロセスに参与するものとなってはじめて十分な翻訳と言えるのかもしれない。

・だれが翻訳を行うのか。
 聖書翻訳の場合、翻訳の主体(翻訳者)についても、論じるべき問題が存在する。キリスト教を日本に伝えた初期の宣教師が翻訳を担う場合と、あるいは現代の日本人が過去の諸翻訳の遺産を前提に、新たな聖書の日本語訳を試みる場合とでは、翻訳の方法論(基本方針を含め)は当然同一のものとはなり得なし、適切性についても別の規準が設定されねばならないであろう。つまり、翻訳論はきわめて緻密な理論構成を必要とする問題であって、あまり単純かを急ぐべきではない。その点で必要なことは、個別的な翻訳の事例を地道に収集し検討するという作業である。この作業を飛び越えて頭で理論構築を行う場合、ともすれば偏った抽象的な議論に陥ることになる。その点で、ケセン語訳聖書は興味深い事例である。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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