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アガンベン・メモ(a27)

6・4
ここでは、「習慣的な使用」について、観想との関わりが論じられる。手がかりはスピノザ。
「スピノザ」「《自己満足は人間が自分自身および自己の活動能力を観想することから生じる喜びである》」「『エチカ』第四部定理五二」
「観想は使用のパラダイムである。使用と同じく、観想は主体をもたない。」「観想のなかでは観想する者は全面的に自分を喪失し溶解してしまうからである。また使用と同じく、観想は客体をもたない。というのも、制作品のうちにそれは(自己本来の)能力だけを観想するからである。」
「近代的自我がその場所を簒奪してしまっている自己」

「建築家や大工」「家を建築していないときにも建築家であり大工でありつづける」
「働かないでいることもできる建築する能力の有資格者であるからではなく、彼らが建築家や大工としての自己の使用のなかで習慣的に生きているから」、「習慣的な使用は観想であり、そして観想はひとつの〈生の形式〉である。」

 やはりキーワードは「生の形式」。
 昨日は、京都大学基督教学会の学術大会が行われ、研究発表の一つは、「アウグスティヌスにおける身体の救い」。アガンベンを念頭においても、身体は奥が深い。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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