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『福音と世界』から

『福音と世界』 2019. 9 (新教出版社)が届きました。
 夏の予定は、昨日までが、宗教倫理学会の一泊研修会(高野山大学)で、9月に入ると、いよいよ学会の学術大会が集中し始めます。自分の個人的な仕事としては、学振関係の仕事がお盆前に終わり、大事典の方も、自分の担当分は、ほぼ作業が完了し、後は、仕上げを行って、教文館に送付する段階まで来ました。まずは、順調な進行状況と思います。また、故障していたPCもようやく今週中に戻ってきますので、滞っていたHP(芦名研究室)の更新も、再開できそうです。ただし、HPの方は、これを機会に内容を絞り込み、更新が簡単になるようにしようかとも考えています。明日は、キリスト教学研究室関係者で、9月の学術大会で研究発表を予定している方々の予行を行います。

 9月号の特集テーマは「沖縄という問いかけ」です。沖縄問題は、現代日本の最大の政治的課題の一つであり、日本における民主主義の命運がかかっていると言っても過言でない。沖縄という特殊な状況に、普遍的な問いがかけられていることは、キリスト教思想にとっても、大きな重い意味をもっています。それにしても、沖縄以外の日本において、反応がこれほぼまで鈍いのは何故かについても、考える必要があるでしょう。

 収録された論考は以下の通り。

・「植民地統治性から沖縄/自らを凝視するために」
 (森啓輔)
・「「外国人」問題と沖縄社会」
 (土井智義)
・「鎮圧と回帰──反革命としての現在」
 (大畑凜)
・「沖縄女性をめぐる文化表象の政治学」
 (成定洋子)
・「暴力によらない抵抗の回路を開く──目取真俊『眼の奥の森』をめぐって」
 (村上陽子)

 特集のあとには、次の書評と報告記事。

・白石嘉治:「他者への帰依=念仏専修という革命」
    守中高明著『他者への哲学──赦し・ほどこし・往生』(河出書房新社)

・藤原佐和子「アジアの人権問題をめぐって」(〈WCC・CCAエキュメニカル国際会議報告〉)

続いて、連載。
まず、今月号からの新しい連載として
・土井健司「教父学入門1」:「いま日本で「教父学」を書くにあたって」

 今月号から、教父学についての連載が開始されます。初回は、連載の導入・説明ということになりますが、「いま日本で」という辺りのニュアンスは、後半から伝わってくように思います。全体としては「教父学とは何か」についての説明です。
 教父学にしても、また組織神学にしても、片手間で器用に料理できるようなものではなく、地道で長い作業を要求される学問です。というわけで、どうしても、継続的な取り組みができる状況にないとものにならない分野です(たとえば、神学部などで、この分野の専門教員として数十年にわたって研究と教育を行うなど)。その点で、現在の日本で「教父学」を書くのにふさわしい人物の一人が連載を担当する土井健司さんです。専門外の者としても、楽しみな連載になりそうです。

・「福音の地下水脈」:「第22回:町田康(前編)」
「こぼれ落ちた“異端”から」

・「神の酒」:「第6回 地酒と人生、スナックにあり」
 (石井光太)

・「バビロンの路上で」 6.「バンコクの夕立とある修道僧の死」
 (マニュエル・ヤン)

・「遺跡が語る聖書の世界」9.紀年法と貨幣
 (長谷川修一)

 貨幣の問題は、重要。その点からも、電子マネーへの移行が何をもたらすかは、文明論として議論すべきだろう。
 
最後は、次の連載です。
・内田樹「レヴィナスの時間論──『時間と他者』を読む」53
 今回は、「つねに適切な」判断できるほど「理性的でも倫理的でもない」わたしたちが、どうしたらよいのか、という問題提起で議論がはじまる。
 「方法は二つ」。
 「一つは「規範がそれを命じるから」」。「規範が「外付け」されていて」。

 筆者が追求するのは、こちらではなく、もう一つの方で、こちらはレヴィナス。前代未聞のアイディアが「ああ、なるほど、そういう考え方もある」、「新しいけど、懐かしい」として、受け止めるために、筆者は、小林秀雄と岡潔との対話に言及する。

「「他者の歓待」について非-宗教的な戒律は存立し得るかということ」、「この問題を「歓待する側の善意や良心」によって解いてはならないとレヴィナスは考える。「善意や良心」以外のもの、それ以上のものによって歓待は基礎づけられる。」

 ここで、筆者は、前回とほぼ同じ文をレヴィナスから引用する。

「他者を歓待する責務をおのれの双肩に感じる者を『人間』ち呼ぶ」、「他者に呼びかけられた時に、これに応答するか無視するかを判定する『私』があらかじめ自存しているわけではない。呼びかけに応答した後に『応答をなし得るもの』としての主体が事後的に成立するのである。」

「「後に」」「問題は順序なのだ。」「人間は矛盾するものを矛盾していないと情に納得させるために時間というアイディアそのものを生み出しアットとさえ言えるのである。」
「レヴィナスは、「慈愛の絶対的優先性」を哲学的に基礎づけるためには「時間」という概念そのものを改鋳することが決定的に必要だという直観に導かれて、この時間論講演を行った。」
「時間論=他者論」
「異邦人が訪れたときにはじめて「荒野の幕屋の主である私」が立ち上がるという順序でものごとは生起しているのである。この時間論的転倒なしには絶対的慈愛は基礎づけることができない。」
主体の「再定義」

 今回は、以上のことを世阿弥を借りて再度説明し、締めくくられる。
 「慈愛の絶対的優先性」、主体の「再定義」によって、レヴィナスのポイントは明確になった(と思われる)。では、歓待するか無視するかを現実に分けるものは何か。人間はなぜ非人間的でもあり得るのか。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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