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アガンベン・メモ(a36)

7・7
 秘跡の議論となると、有名な、事効論と人効論の論争が挙げられる。今回のアガンベンの議論から見ると、両者は「道具」という点では、同じ地平にあることがわかる。興味深い。

「秘跡においては、道具的な原因という性格は物質的性格(水、聖油、等々)だけのものではない。それはなによりもまず秘跡を執り行う者自身にかかわっているのである。司祭はれっきとしてひとのの道具である。」
「司祭は《生命ある道具(instrumentum animatum)》である。」「《生命ある道具》という用語は」「アリストテレスの『政治学』からやっいぇきたものである。そのなかでアリストテレスは奴隷の本性を定義するのに用いていた。そのうえ、ここで司祭を指して言われている「ミニステル(minister)」という語も、元々は「僕」という意味である。」

「秘跡を執り行い者を奴隷──奴隷は法的人格をもたず、その行為の責任は主人の「ペルソナ」に帰せられる──に吸収・同化してしまっているのは完全に意識してのことである。」「《生命ある道具》のパラダイムをつうじて秘跡の司祭職が用語の面だけでなく系譜学的にも奴隷の身分につながっていること」

「道具因と奴隷とのつながりは、さらにいっそう本質的である。そのつながりは《そのエルゴンが身体の使用である人間》という定式そのもののうちに、そしてまた奴隷は《人間でありながら、その自然によって自分自身に属するのではなく他人に属する》者であるという(見てきたように、法律的ではなく存在論的な性格を有する)定義のうちに含意されている。」

《生命ある道具》は、この「7」のタイトルであるが、そもそも「奴隷・僕」とは、アガンベン自身がローマ書講義で述べていたように、パウロのもっとも基本的な自己理解に関わる用語である。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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