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アガンベン・メモ(a43)

8・4
 レヴィナスの「逃走論」(1935年)によって、「8・3」の身体の問題の展開がなされる。

「羞恥、吐き気、欲求」などの身体的経験。ハイデガーにとっては、「非本来的なもの」
「非本来性を引き受け把捉するべきであるような仕方で選び取ったのではない事実性のなかに、取り返しがつかないかたちで投げ込まれているとするなら、この存在論的構造はいまや身体的欲求と吐き気と羞恥の分析のなかでパロディ的な定式化を見いだす。」

「羞恥」「羞恥は、隠したいが隠すことができないすべてのものとかかわっている。・・・羞恥のなかに現われるもの、それは自己自身に釘付けになっているという事実にほかならない。自己を自己自身から隠すために自己から逃げることの根底的な不可能性であり。自己自身への自我の仮借ない現前にほかならないのだ。・・・恥ずかしいのは、わたしたちの内密性である。・・・」

「二重のパラドクシカルな運動」「《わたしたち自身がわたしたちに自身に反抗する現前》」「経験される瞬間に、《わたしたちに乗り越え不可能なものとして現われる》。」
「疎遠で自分のものとして所有することのできないものに転化する。」「わたしはそれらを受け入れることもそれらから逃れることもできないのだ。」

「身体への関係の矛盾した性格は欲求において臨界点に達する。」
「欲求のその瞬間は自己の身体の真理を剥き出しにしてしまうのである。それは「~に引き渡されている」と、「引き受けることができない」とを両極とする緊張の場にほかならないのだ。」

「トゥレット症候群」

 今回のレヴィナスの議論は、本ブログで、『福音と世界』の連載として紹介している、 内田樹「レヴィナスの時間論──『時間と他者』を読む」が参照できる。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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