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アガンベン・メモ(b23)

2・3
古典的な存在論(ピュポケイメノン)とピュポスタシス概念の流行との関係。

「ピュポケイメノン、純粋の現実存在者は、アリストテレスにとっては存在の最初の直接的な形態であり、根拠をなんらひつようとしなかった。」「それ自体が最初の(あるいは最後の)基体である」「これが先に置かれるこよによってあらゆる理解とあらゆる述語作用は可能になる」

「ストア派」「存在自体の現実存在への移行を定義するために」「「ピュピスタスタイ」」「「ピュポスタシス」という述語を使用していた。」
「ピュピスタスタイ」:「「言い表しうるもの」、時間、出来事のような被物体的なものどもの存在様態を指示」
「ピュパルケイン」:「物体の現存との関連」
「実体ではなく、過程または出来事の性質をもつ、存在の非物体的な次元が存在する」

「ピュポスタシスはいまやひとつの操作のようなものに──概念上は生成の順序としては二次的なものでしかないとしても──転化する。この操作を通じて存在は現実存在となって実現されるのである。」「現実存在はなにか存在が産み出し、しかしまた必然的に存在し所属するものでもある。」
「現実存在には、存在の操作、解放、ないしは現実化以外の根拠は存在しないのである。」

 キリスト教思想との関連で興味深いのは、このセクションに付された次の注。
「フィロンは(いつものことながら、新プラトン主義とキリスト教神学においてようやく確固たるものとなるもろもろの傾向を先取りして)、《ひとり神だけが存在のなかには現実に存在している(あるいは存続している)》」「と書いている。」
「存在者はヒュポスタシス、現実存在の様態で存在する。が、ヒュポスタシス化されることのない存在もまた生じるのである。」
「一方では、フィロンの神があり、そこでは存在と現実存在を区別することができない(あるいは現代の表現をパラフレーズするなら、存在の実存は本質のうちに横たわっている)。他方では、多様な存在者がいて、そこでは存在は現実存在のうちに残り滓として横たわっている。」
「本質の実存からの、そして神的なものの人間的なものからの、やがてますます大きくなっていく乖離の過程が始まる。」

もちろん、この乖離の過程がその全貌を現すには、長い年月が必要であった。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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