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『福音と世界』から

『福音と世界』 2020. 4(新教出版社)が届きました。
 雑誌の記載の仕方では4月ですが、現在、大学では(おそらく教育機関全般で)4月からの授業をどうするかで連日会議が続いています。コロナウィルスへの対応です。対面授業をオンライン授業に切り替える、開講日を遅らせるなど、4月はもうすぐ迫るにもかかわらず、これで大丈夫といえる案はまだまだです。というのも、政府の方針がまず決まり(来週?)、それから全学の方針が確定し、そして現場の学部へといった順序にならざるを得ないわけで(この順序は、学部の方針に基づく、各専修の方針、そして個別の授業の在り方へと繋がっていくことになります)、最初が決まらないと結局、現場は対応しようがないということです。京都大学の場合は、25日に全学の方針が確定しますので、それに応じて学部の対応も決まります(もちろん、いくつかの想定のもとで、議論と準備は進めつつありますが)。これは、根拠があることではありませんが、4月中はなんとか凌いで、5月の連休明けから正常化したいというのが共有された願望でしょうか。しかし、これは、わたくしの学生時代の京都大学文学部では普通のことだったように思います。不思議な気がします。

 さて、4月号の特集テーマは「〈家族〉をほどく」です。ここでの「ほどく」とは、逃れがたい家族、絡み合う規範をほどき、そこに残る家族を超えたものに根ざすことで家族を結び直す、という意味のようです。わたくしは以前に、イエスの宗教運動を家族という観点から論じた際に、イエスの宗教運動における家族批判は家族のメタファー化を生み出すと議論しました。これは、「ほどく」のニュアンスに近い気がします。わたくしの場合は、クロッサンの議論を参照し、それをメタファー論として再解釈したものですが。

 収録された論考は以下の通り。

・「傷を覆う」
 (寺尾紗穂)
・「コンヴィヴィアルな「男らしさ」と新自由主義」
 (渋谷望)
・「セクシュアル・マイノリティのカップルと異性愛家族像」
 (神谷悠介)
・「家族の終わり、家族の始まり」
 (編集部・堀)
・「ヤングケアラー・若者ケアラーとその「家族」へのまなざし──〝支援〟や〝対策〟の前に考えておきたいこと」
 (松﨑実穂)
・「家族を超える」
 (金在源)

 ここで、次の書評と報告。
・書評「河野貴代美[編者]『それはあなたが望んだことですか フェミニストカウンセリングの贈りもの』三一書房、二〇二〇年」
 (斉藤綾子)
・「日本・在日・韓国 女性神学フォーラム」報告
 「戦争・ジェンダー・ナショナリズム──沖縄から考える」
 (編集部:工藤)

 今回から、二つの新しい連載がスタートします。
・金迅野:「いまを生きるみことば」 第1回「たがいに足を洗う」ヨハネによる福音書13:3-5
・栗田隆子:「I Say a Little Prayer 開かれす世界」 1 おやつと修道院

 二つの新しい連載は、学術的な形式の連載とは大きく趣が異なったものであり、『福音と世界』の一つの向かう方向を示しているように思われる。

・好井裕明「くまのシネマめぐり」3:「在日朝鮮人という「他者」を考えるために」
 『月はどっちに出ている』『カーテンコール』
 
・土井健司「教父学入門」8:「弁証家ユスティノス(2)──神の力としてのロゴス」
「ユスティノスはローマにおいてキリスト教を教える立場にあったが、彼のロゴス論の根本には、礼拝においてイエスの言葉に接する経験があったものと思われる。」
「「短く」(ブラケイス)、また「簡潔」(シュントモイ)」「それだけに力強いものであり、「神の力」であったという。イエス自身がロゴスとして神の力であり、それゆえ彼の語った言葉も力強く響き、信頼を生じさせるものであった。」「御言葉を聴き信を確かにする。そのような人びとを彼は礼拝の場で見知っていたのであろう。」

 現代神学の議論における「言葉の出来事」とはこうした事態であろう。問題は、聖書テキストを読む際に、この出来事はいかに生じるのか、あるいは生じないのかである。

「バビロンの路上で」13.「師匠とアルコール「魂の遍歴」」
 (マニュエル・ヤン)

「遺跡が語る聖書の世界」16.契約
 (長谷川修一)
「契約社会のはじめりは古くメソポタミアにまでさかんぼることができる。」
「契約というシステムは、人同士の約束を記録し、それをきちんと履行して社会を円滑に進めていくための装置として発明され、機能してきた。」

 契約は決定的に重要な問題。
 
最後は、次の連載です。
・内田樹「レヴィナスの時間論──『時間と他者』を読む」59
 今回は、神秘、語り得ぬものが、時間論との関わりで論じられます。議論は、単独者から「現在とは違う時間」へ進みます。

「単独者は全体性の意味秩序のうちに完全には回収されない」「単独者は全体性ての秩序を「逃れ出る」」「「隔絶される」」。
「しかし、まさにこの孤立から話は始まる。」「「永遠に真なる経験」へ向かう反転の営みの出発点」。
「単独者は、理論的には」「全体性から隔絶されているけれども、具体的な経験においては」「人間は神と世界と深く結びついている。」

「「存在を調えるもの」」「「それ」は出来上がった「作品」に時間的に先行するものだ」「今ここにあるものよりも時間的に先行しているものが、このものの骨組みや筋立てを決定しており、われわれはそれを直接見ることができない。」

「一神教信仰は、広く宗教は、人間が「遅れ」という時間意識を持つことで成立した。」
「「私」はここに存在するという当の事実ゆえに、すでに他者に遅れており、他者に借りを負っており、他者に応答する責務を負っている。」
「「存在を調えるものとしての宗教」は「哲学者の全体性」に先行し、観照的主体によっては俯瞰することはできない。「繊維の絡まり」は「布地」に先行し、「筋立て」は「作品」に先行する。それらは布地が織り上がったとき、物語が完成したときにはもう目に見えないものになっている。」
「単独者が全体性から「逃れ出る」のは、まさにそれゆえなのである。」
「単独者として「永遠に真なる経験」へ向かう反転の営みの第一段階」「今そこにある秩序かと閉域「から」単独者は離脱する。「今」から離脱するという仕方で単独者は時間を生きるのである。」

「人間は全体性の秩序のうちに「投じられている」という意味では全体性の秩序に遅れている。しかし、単独者として全体性の秩序の不完全性を覚知し、そこから「撤退する」とくに、全体性の秩序に先行する時のつながりを回復する。」

「「神秘」を「今」とは違う時間として観念することは容易ではない。」「「現在とは違う時」を私たちの脳は図像的に表象できないからである。」
「「一望俯瞰できない時間」というものを観念するためには、自分たちの思考習慣そのものを「かっこに入れる」必要があるのである。」
「「レヴィナスの時間論」というのは、厳密に言えば、「論」ではない。それよりはむしろ時間を脳内で表象するときに手持ちの思考習慣を適用しないという「抑制」あるいは「節度」のことなのである。」
「自分の思考をいわば宙吊りにすること」

 ここでの単独者は、キルケゴールの言う単独者といかなる関係になるのだろうか。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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