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『福音と世界』から

『福音と世界』 2020. 6(新教出版社)が届きました。
 5月の連休が終わり、京都は1年でもっとも美しい季節を迎えています。しかし、例年と大きく違うのは、人の少なさです。大学のキャンパスも、閑散としており、とても、5月とは思えない感じです。しかし、授業はオンラインで本格的に始まり、教員も学生もなかなか大変な状況です(オンラインと言っても、やり方はさまざまで、Zoomを使ったリアルタイムでの講義であれば、対面形式との差はそれほどないようにも思いますが、そうでない形を選ぶと、授業の準備にかなりの時間を使うことになります)。現在は、8月から9月の集中講義がどのような形で可能かについて、検討に入っています(前期試験に関しては、ほぼ検討が終わりました)。京都大学の現在の警戒レベルは、レベル3で、レベル2へ引き下げが検討されていると聞いていますが、レベル2でも、授業は原則オンラインなので、当面はオンラインのままになります(対面が条件付きで可能になるのは、レベル1ですから、これはいつのことでしょう。なお、最高レベルは、レベル5で、こうなると大学の機能がほぼ止まる感じです)。まだまだ大変です。

 さて、5月号の特集テーマは「ヒップホップの福音」です。『福音と世界』では、これまでヒップホップに関する記事・エッセイも掲載されたことがあったので(確か、記憶では)、まったく初見ではありませんが、わたくしにとっては、ほとんど、未知の領域です。ともかくも勉強になります。情報戦争や文化といった論点は、とっつきやすいところですが。

 収録された論考は以下の通り。

・「サグ・アナムネーシス──ならず者たちが見る新しい世界」
 (山下壮起)
・「間違っていることを正しいと歌わない──日本の〝コンシャス・ラップ〟の現在」
 (二木信)
・「「情報戦争」時代における文化──星野源、A-THUG、Kamuiから考える」
 (五井健太郎)
・「あなたは私に耳を貸すべきではない」
 (高島鈴)
・「〈小説〉 金田満子のドープなリリック」
 (飯田華子)
・「〈インタビュー〉 世界のコンシャスネス MCビル風の物語」
 (MCビル風a.k.a.ヤングハイエース)

では、連載へ。

・好井裕明「くまのシネマめぐり」:「台湾と日本の歴史を考えよう」
 『セデック・バレ』『台湾人生』
 
・土井健司「教父学入門」10:「大ディオニュシオス──疫病蔓延期を生き抜いた監督」
 今回は、アレクサンドリアの監督であった大ディオニュシオス(観測在位:251-262年)であり、「今回は、新型コロナウィルスによるパンデミックという現在を背景にしてこの人物を取り上げてみたい」と説明されていまうs。
 まず、人物の伝記的な説明(オリゲネスの許で学んだこと、迫害の経験、疫病に悩まされたこと、終末論をめぐるアレゴリカルな解釈を擁護したことなど)がなされ、今回のテーマとも言える、疫病蔓延の事情とその中で、ディオニュシオスが教会に宛てた書簡が取り上げられる。
「疫病は「他(の災禍)に劣らない訓練と試練」となったこと」」、疫病を前にして「危険を顧みずに病人を訪れ、優しく介護」し、そして亡くなった人びとが「「決して殉教に劣るものではない」とたたえていること。
 著者は、二つのことを考えるべきであると述べ、論を締めくくっている。
一つは、「死をどのように位置づけるか」「現代に生きるキリスト者ににとって希望とはなんであろうか。」
もう一つは、「ディオニュシオスの視点が、疫病にかかった者を前にしてどのように振る舞うのかに絞られていること」、「現代に生けるキリスト者は被感染者を前にしてどのように考え、行動するのだろうか。」

 現代の人類(また、わらしたちひとりひとり)が直面する問題の中で、教父の思想を読み解く作業は貴重な試みである。しかし、これは現在、急に思いついたことではなく、筆者が長年、教父思想に取り組んできた際に基本的な視座なのである(『救貧看護とフィランスロピア──古代キリスト教におけるフィランスロピア論の生成』創文社)。

「バビロンの路上で」15.「労働が死を意味するなら、復活とは何か」
 (マニュエル・ヤン)

「遺跡が語る聖書の世界」18.交易
 (長谷川修一)

 古代イスラエルの宗教は一神教を言われますが、その経済活動は、同然、いわゆる多神教圏との間で行われることになる。この点を考慮しないと、古代イスラエルの実像は分からないのではないであろうか。交易はきわめて重要。特に、鉄器・武器の交易がどうなっていたかは、詳しい議論がほしい問題である。
 
最後は、次の連載です。
・内田樹「レヴィナスの時間論──『時間と他者』を読む」62
 これまで論じてきた、ローゼンツヴァイクの愛と啓示についての議論から、再度、レヴィナスを見るというのが、今回のテーマであるが、歴史についてのヘーゲル、サルトル、ボーヴォワールと、それに対するユダヤ教、ローゼンツヴァイク、レヴィナスとの対比がポントである。
「そのつどの「今」において永遠性は啓示される」、「神の人間に対する愛は、一回的にかつ余すところなく開示される」、したがって、「ユダヤ教には「歴史」というものがない。」
「ヘーゲルとその後継者たちは、今ここでの人のふるまいの意味や価値は、歴史という全体性のうちに位置づけてはじめてその本来の意味を開示すると考えた。」

「歴史には「始まり」と「終わり」だけがあって、段階的に救済が現実化してゆくような「途中」はない。」
「「神なき宿駅」をたどるユダヤ人は、今ここで、その聖史的歴程の全行程を歩んでいるのである。」「「ユダヤ的共同体は永遠性をそのうちに宿している共同体」」
「宇宙的な一日」「は、祝祭と儀礼を通じて縮減されたかたちで、日々再演される。」

「神の愛のついてのローゼンツヴァイクのこの考想はそのまま私たちの日常的な、エロス的関係にも適用されるのではないか?」
「他者の他者性・外部性を毀損することなく出会うこと」、「他者をその生き生きとした単独性において愛すること」
「他者との出会いは啓示である。」

 以上を踏まえて、以前に問題となった「女性性」についてのレヴィナスの議論が再度取り上げられる。
「ボーヴォワールの最終目標が、権力や威信や財貨や文化資本の分配における性差の完全な廃絶にあるとしたら、それは人間というものがその性差にかかわりなく、世俗的価値を奪い合って「万人が万人に対する戦い」を続ける生き物だという寒々しい人間観に同意署名することでもある。」

 しかし、今回は、「女性性」の議論は、中途で終わったとの印象である。これは次回の問題か?
 「ユダヤ教には「歴史」がない」をめぐって、今回のそれと対比された「歴史」とは、近代の歴史主義が端的に表明しているものである。とすれば、キリスト教の古代と中世は、近代的なのか、あるいはユダヤ教的なのか、あるいは、どちらでもないのか、が問題となる。また、「祝祭と儀礼」における再演ということであれば、エリアーデが追求したアルカイックな宗教性と違いはないようにも思える。
 旧約聖書に描かれたユダヤ人にとっての他者とは? 
 さまざまな問いが残った。今後、考えてゆこう。
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Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、内容的にこの科研のテーマ(「自然神学・環境・経済」)に限定されない諸問題を扱うことが多くなったため、本ブログのタイトルと趣旨を変更したいと考えました。新しいタイトルは「自然神学・宗教哲学・自然哲学」となります。もちろん、これまで同様にさまざまな問題を取り上げます。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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