コペルニクス4

 これまで3回に亙って、コペルニクスに関して、文献紹介を中心に議論をおこなってきた。今回は、これまでのまとめを行うことにしたい。

 まず、コペルニクス以前と彼と同時代の問題状況について、ポイントを指摘したい。
・中世の世界観:聖書+古代科学の遺産
 中世の世界観が天動説であったことは言うまでもないが、これは基本的には天文学者の
関心事であり、かれらは難問(惑星の軌道問題)と取り組み、プトレマイオスの数学モデルの精密化を試みてきた。これは、クーンが言う通常科学の在り方(理論の枠組みを保持しつつ、実験・観察に合致するように理論を改良する営み)に対応したものであり、コペルニクスの仕事はこの数学的モデルの転換に関わっていた。これは、まさに革命的であるが、コペルニクスはモデルへの取り組みは職人的である。

・しかし、庶民の生活感覚において捉えられた世界像にとっては(これは現代にも通じることであるが)、天動説であろうと地動説であろうとほとんど関係ない、あるいはそこには素朴な天動説的常識が支配している、というべきである。庶民にとって重要なのは、三層構造世界平面(天上、地上、地下)と死後の三領域(天国、煉獄、地獄)とからなる世界だったのである。

・教会にとっても、天動説か地動説かの議論は、本来必ずしも大問題ではなかった。教会は科学者の活動のすべてを監視しているわけではないのである。理論が数学的モデル=仮説の範囲にとどまるかぎり、科学者はかなり自由に考えることはできた(ガリレオでさえも)。

・しかし、宗教改革期の特殊事情が、ケプラーとガリレオの運命をわけることになる(コペルニクスはこの運命には遭遇しなかったが、すでに予感はあった)。それは、宗教改革が聖書解釈をプロテスタント(聖書のみ→贖宥状の否定)とカトリック(聖書+伝統→贖宥状も可)との決定的な争点へと押し上げたことによる。これは、プロテスタント的な聖書の新(?)解釈とカトリック的な伝統的解釈との争いであり、特にカトリックにおいて本来はかなり柔軟だった聖書解釈(比喩的解釈や適応説)が硬直化することになる(コペルニクスの死後開催されたトレント公会議 1545-63:聖書のラテン語訳「ウルガタ」の正典化、聖書解釈の問題は教父の解釈伝統を参照すべきことが決定)。

・実際、カルヴァン『創世記注解』が示すように、「適応の原理」(principle of accommodation)は、天文学者の新しい世界観と聖書テキストとの調和を可能な解釈原理として機能しうることがわかる。また、コペルニクスの最初にして唯一の弟子となったレティクスが、コペルニクス説を擁護する際に用いた論法は、伝統的な比喩的解釈と適応説だったのである(R・ホーイカース『最初のコペルニクス体系擁護論』すぐ書房)。

 天動説と地動説との論争に際して、天動説を支持すると思われる聖書テキストとして次のような箇所が挙げられる。
・ヨシュア記10章
・イザヤ書40.22
・ヨブ記9.6
・コヘレト1.4-5:「一代過ぎればまた一代が起こり/永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み/あえぎ戻り、また昇る。」
・詩編93.1、104.19
 特に、ルターが『テーブルトーク』で言及しているのは、ヨシュア記10章である。
「あたかも馬車や船に乗って動かされるように、天とか太陽とか月が動くのではなく、大地が動いていると判断するまったく新しい天文学者に、博士は言及された。「その学者は自分が止まっていて、大地や樹木が動くと信じている。しかし今はこうなっているのだ。思慮分別を失いたくないと思う者は、彼に異議を唱え、天が動く方を重んじるべきである。彼はもう少し知識を修得しなければならない。彼のやり方は天文学をすべてひっくりかえすようなものである。それでも私は聖書を信じる。すなわちヨシュアが命じたのは大地よとどまれではなく、天よとどまれだったのだ。」(ルター『ルターのテーブルトーク』三交社、62頁)

 コペルニクス説の意味を理解するために、次の三つの問題のレベルを区別する必要がある。すなわち、数学(幾何学)的モデルのレベル/自然学的レベル/神学的聖書解釈的レベル、である。

・数学的モデルのレベル:天文学者は観測結果に合致する天体の軌道を数学的に描くことを試みる。このレベルでの地動説は数学的モデル=仮説であって、自然学的問題や神学的問題とは切り離すことが理論的に可能である(『天体回転論』の無署名の序文を書いたオジアンダーが行ったのはまさにこれである)。

・自然学的レベル:古代から中世に至る知的世界で、このレベルでの権威はアリストテレスの自然学であった。このレベルでの革命は、ガリレオとニュートンによる力学の革新を必要とした。『天体回転論』はこのレベルに踏み込んではいない。

・聖書解釈的レベル:先に述べたように、伝統的な比喩的解釈、適応説に依拠して地動説を擁護することは可能であり、これはコペルニクス自身の仕事ではなく、弟子のレティクスの仕事である。

 以上を念頭におくとき、コペルニクス説の何が問題だったのか(問題になると予想されたのか)。おろらく、次のようにまとめるのが穏当な線であろう。
 コペルニクス説は、数学的モデルにとどまるかぎり、一仮説として容認可能であり、聖書解釈との関わりも宗教改革以前ならば深刻な問題を生じなかった(宗教改革が聖書解釈を取り巻く状況を大きく変えた)。したがって、コペルニクスの意図に従う限り、コペルニクス革命は、数学モデルの変革であり、自然学や聖書学・神学に波及するものではない(これらに関してコペルニクスは中世人であり、伝統的な知的世界に生きていた)。しかし、この学説は、それがその後にもたらした影響において、まさに知的世界を革命的に転換するものとなった。その点でコペルニクスの名を革命と結び付けるのは正当である。たとえば、カントのように。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

LogosOffice

Author:LogosOffice
 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
Translation(自動翻訳)
FC2カウンター
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR