大学と政治、日本の大学はどこへ行くのか

 日本の大学は、現在、政治との関係で決定的な分岐点を迎えている。本国会で可決の恐れがあると言われている、学校教育法・改定である。学問・大学の自治は、いくつかの基盤の上において成り立っている。その中でも中心的なのは、人事権と財政権である。しかし、日本(特に国立大学は。しかし、私立大学も)の大学は財政面で政府・政権にその多くを依存することにおいて、自治においては決定的な限界を有していた。その中で、曲がりなりにも自治を可能にしていたのは、人事権である。だれが、学長や学部長を選ぶのか、また教授や准教授の採用などの決定を行うのか、という問題であり、これまでは、大学内部にその権利が認められることによって、自治が成り立っていたわけである。今回の学校教育法・改定は、この法的制度的な基盤を完全に崩壊させるための可能条件となるものである。

 もちろん、これには運用次第という面は残されており、たとえば、大学自治に理解のある学長が選ばれれば、その学長は、学部長選出や教員の採用・昇任人事で、従来の学部の主体性を認めるかもしれない。しかし、そうなるかがきわめて怪しいことは、この半年余りの、京都大学における総長選出方法をめぐる攻防が示す通りであり、当面、どのような方向性が考えられるかは、安倍首相が、OECD閣僚理事会で行った基調講演(5月6日)などが示すところである。

 たとえば、長周新聞(第7580号、2014.5.12)の第一面における「大学を職業訓練校に 安倍晋三、OECD閣僚理事会で公言 学術研究切捨てる愚かさ」、あるいは同紙第四面の「先細る大学の工学系学部 日本産業を支えた「ものづくり」学問 大学関係者が話題 儲け第一が阻む研究」などを参照。

 なぜ自治が必要かと言うことは、さまざまな論点が挙げられるが、それは資本主義の経済論理(特に国民経済という観点で)から見ても、自由こそが進歩・発展の基盤だからであり、進歩や発展を可能にする自由とは政財官が大学を自由にするという意味の自由ではなく、大学の現場で研究や教育に関わっている人々の自由であるはずである。日本におけるノーベル賞級の研究がいかなる制度的基盤において可能になったのかをよくよく考えるべきである(基礎研究に近いところでの最先端の研究成果が果たして現在進行中の改革で生まれるだろうか)。

 しかし、大学の実態は、すでに改革を先取りしつつ進展している。大学を職業訓練校ということは、すでにかなりの部分において、大学の現実となっていないだろうか。大学の自治の解体作業はその成果を着々とあげつつある。それを法的に完成するのが、今回の学校教育法・改定ということである。(同じことは、TPPとの関わり問題となり得る、農協組織に対しても、進行中である。朝日新聞Degitalの次の記事を参照。「全中の「指導権」廃止を提言、政府、農協改革案まとめる」。まず労働組合、次に大学・学校、そして農協という仕方で、事態は一つの方向へ向かいつつある)。
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