現代聖書学から、クロッサン4

ジョン・ドミニク・クロッサン『イエスとは誰か──史的イエスに関する疑問に答える』の第四章からの要点を抜粋します。テーマは、イエスの教えの中心、つまり、「神の王国」(神の国)についてであり、聖書学のこの200年の歴史の中におけるイエス理解の共通点とでも言える論点です(神の国運動としてのイエスの宗教運動)。クロッサンは、この神の国運動が、王権、家族といった諸問題とも関わりつつ(神の国は、経済的政治的な論争の中にある)、開かれた食卓という仕方で、神の国を実演するものと考えている。これは、聖書学に通文化的比較研究という方法論を導入することによって可能になっている。

 イエスの宗教運動に遡って、聖餐を論じようとする場合、次の点を考慮する必要がある。
「神の王国の分け隔てない平等な性格の象徴として、イエスは開かれた食卓の伝統を残しました。その後、特定のキリスト教徒集団が最後の晩餐を儀礼に仕立てて、あの解釈の伝統にイエスの死の記念を付け加えたのです。」(78)
「現代の民主主義よりもずっと過激な体験」(79)

 では、以下、抜粋です。

4 イエスは何を教えたのか
「「神の王国」とは、皇帝(カエサル)ではなく神が玉座に就いた世界、皇帝(カエサル)ではなく神が公明正大に支配する世界、という意味です。宗教概念であると同時に政治概念なのです。そして倫理概念であると同時に経済概念なのです。」(62)
「神の黙示的な介入と神の社会革命は全く違います。そしてイエスは、洗礼者ヨハネの期待した黙示的な介入を捨てて、社会革命の宣言に転向したのです。」(63)
「イエス時代の地中海世界では王が実際に権力を持っていました。一世紀、王権について関心を抱いたのはユダヤ人の黙示預言者だけではありません。王権はヘレニズム世界共通の話題です。これは、いかに権力を正しく人道的に行使するかという議論でした。福音書は、人間の権力の使い方と神の権力の使い方の差を際立たせようと苦心しています。」
「結局のところ、反社会的な挑発と痛烈な政治批判が伝わりさえすれば、「王国」の代わりに「共同体」を使ってもいいのです。」(64)
「私たちが読んでいるイエスの言葉とされるものは、彼の死後何十年どころか何世代も経ってから知識人階級が記録したものですが、最初の聞き手たちは、何時間もかかった話のうち強烈な印象や、上手な譬えや、見事な粗筋だけを記憶したのでしょう。」(66)
「大事なのは、世界で神の意志を行おうと努力し合う人々が互いに「家族」となるような新しい共同体です。」(67)
「要点は家族の信仰ではなくて家族の権力でしょう」、「父親と母親が息子と娘と嫁に対して威張るという、地中海世界の家族の権力制度を攻撃しているのです。」(68)
「うわべは平穏な家庭に酷い暴力が潜んでいること」「一世紀だろうと二十世紀だろうと、イエスの批判には説得力があるのです。既存の家族制度は絶対のものではない、全ての制度は人間を育むためにある、家庭生活も社会生活も神の王国のもとに批判される、あらゆる人間関係は正義と愛のために存在するのだと」(69)
「イエスは、貧乏人つまり実際のところ農民階級全体が幸いだと宣言しただけでなく、一文無しの乞食が幸いだと宣言したのです。」(70)
「一文無しになるとは何とすばらしいことだろう」「ただの個人感覚ではなくて、社会感覚でこれを聞くことが大事でしょう。イエスも農民仲間も、不正な制度の中にいることを自覚していました」、「「罪がないのはホームレスだけだよ」と言うのではないでしょうか。もちろん恐ろしい発言です」、「単なる個人の暴力の問題ではない制度の暴力を言い当てているからです。自分一人はいくらで清廉潔白だろうと不正な社会制度の一員であるからには手も心もよごれているのだ、というから痛烈なのです。」
「お前の奴隷を強姦したりこき使ったりするな、と言うだけではなくて、奴隷制は神の命ずる正義と平等に反するのだ、と主張しているわけです。イエスは、個人よりも制度や構造を批判しているのです。」(71)
「そんな状況でイエスの譬え話は、宗教や神学だけでなく、政治と経済について討論する場になったでしょうか。」(72)
「強烈な隠喩です。丹念に手入れした畑の持ち主にとって王国は疫病です。」(73)
「人類学者は、食事の「規則」は人々の関係と態度にかかわる社会規則の雛形であると言います。食卓は、経済格差や社会格差や政治格差の見取り図なのです。」(76)
「分離された食卓は差別の象徴でした。」(76)
「譬え話は譬え以上のもので、食卓の性別も身分も宗旨も違う人たちを招くことでイエスは自分の譬え通りに生きたわけです。」(77)
「神の王国の分け隔てない平等な性格の象徴として、イエスは開かれた食卓の伝統を残しました。その後、特定のキリスト教徒集団が最後の晩餐を儀礼に仕立てて、あの解釈の伝統にイエスの死の記念を付け加えたのです。」(78)
「現代の民主主義よりもずっと過激な体験」(79)
「イエスの語る開かれた食卓や、暴力の終わりや、根本的な平等や、神の王国の雛形は、ただ民主主義を先取りしているだけではありません。現代人の創造するよりも過激で、恐ろしいものです」、「イエスの言動を飼い慣らして無謀なものにしてはいけないのです。イエスの見立てた神の王国は、そのまま現実の状況に翻訳できるものではないでしょう。その意義はむしろ、あらゆる社会状況や慣習との緊張関係を保ちつつ、暴力を排除して正義を実現するための努力を促すことにあるのでしょうか。神の王国は、この地上にこそ根本的な正義を実現しろと呼びかける神を宣言しているわけです。」(80)
「あの「大飯食らいの大酒飲み、取税人と罪人の友達」という悪口のものになったのは、社会の因習を壊す食事会に人を招く実践的活動でした。イエスは開かれた食卓を社会の雛形にしたがったのです」、「癒し」「あれは同情に基づくただの個人的な行為ではなくて、既成の社会構造とは別な神の王国の雛形を作る手段です。」(81)
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