京都ユダヤ思想学会・第7回学術大会

 京都ユダヤ思想学会・第7回学術大会が、明日にせまりました。前日の案内となりましたが、関心のあるかたは、ぜひ会場にお運び下さい。

日時:2014年6月21日(土)
場所:関西大学(千里山キャンパス)第一学舎5号館E601教室
プログラム:
 個人研究発表:合田正人(9:45-)、上原潔(10:30-)、勝村弘也(11:15-)
 公開講演(13:00-14:00):品川哲彦「ハンス・ヨナスという問い」
 総合討議(14:10-17:00:芦名定道、石崎嘉彦、島薗進、村岡晋一
 総会(17:00-)
 懇親会(18:00-):第一学舎1号館一階食堂

 なお、午後の公開講演会の「要旨」は、次の通りです。わたくしも、総合討論では、10分ほどのコメントする予定です。

 「ハンス・ヨナスは、1903年にドイツの同化ユダヤ人の家庭に生まれ育ち、しかし反ユダヤ主義の台頭するなかでシオニズムの学生運動に参画してパレスチナ移住を考え、だが自分の資性から断念し、ハイデガーとブルトマンのもとで実存哲学とグノーシス思想から研究を始め、ナチズムの台頭がなければおそらく順調に大学に地位を得たはずの能力をもちながら、ヒトラーの政権掌握とともに出国して、パレスチナ移住後、第二次世界大戦に英軍に志願して勝利を得つつも、戦後はイスラエル独立戦争に従軍した後に研究生活を優先するために北米に移住し、その後、(実存哲学とグノーシス思想に――さらには近代の思想全般に――共通すると彼の考えた、自然からの人間の乖離を克服するための)自然のなかに人間を位置づける自然哲学、それを契機とした生命倫理学への関わり、さらに地球規模での生態系破壊に抗して未来世代の人類を存続せしめる現在世代の責任を説く責任原理、最後に、アウシュヴィッツ以後に考えられうる神概念、創造された自然のなかに人間を位置づける宇宙創成論(彼の自然哲学に接続するが、ロゴスではなくミュートスを語る点でもはや哲学ではない)を提示した。「ハンス・ヨナスという問い」と題して考えようというのは、この哲学者の思想と実人生の経歴自体が「問い」だからである。
 その「問い」を彼だけに特定される問いではなくて、「アウシュヴィッツ以後のユダヤ的なるもの」、あるいはもっと広くいえば、「20世紀におけるユダヤ的なるもの」という大まかな標題のもとで他のユダヤ哲学者にも関係すると思われるいくつかの問いとして分節化するなら、たとえば、次のような問いがそこから組み立てられるだろう。
 たしかにドイツ社会のなかでユダヤ人としての同一性を意識することはつねにあったとはいえ、しかしナチズムの台頭と支配によって否応なくユダヤ人としての同一性を強めざるをえなかった人びとのユダヤ人たる意識はどのようなものであったろうか。一般化すれば、近代の啓蒙のもとで「ユダヤの信仰をもつxx国民」として生きることが少なくとも主観的には可能に思えたその父の世代の同化ユダヤ人の意識と、その可能性を放棄せざるをえなかった世代の意識と、さらには、人種による差別が法的には解消された第二次大戦後の社会におけるユダヤ人たる意識――イスラエルの国民となった者とそうではない者との差が当然あるが――とはどういうものでありえたろうか。これらの問いをとりあえずの標題でまとめるなら、国民国家とユダヤ性、あるいは、近代の啓蒙とユダヤ性といった標題が考えられよう。とくに哲学者についてはエルサレムとアテネのあいだの緊張という標題も考えられるだろう。そこには、ユダヤ的特殊性の強調(レヴィナスの論稿の主調はこれであろう)、ヨーロッパの伝統の強調(フッサールはまさにこれであり、レーヴィットはむしろこれに近い)、ユダヤ的なるものをヨーロッパの不可欠な要素として強調する(ヨナスの論稿の一部はこれである)、などさまざまな選択肢がありうる。
 ヨナスの晩年の思索「アウシュヴィッツ以後の神概念」は、神の介入することなしにホロコーストが進行したあとにユダヤ人は神をいかなる存在として考えることができるかという問いを(ユダヤ人であり、かつ)哲学者として考え抜く試みだった。ヨナスの出した答えは、創造にその力を蕩尽したために全能ならざる、しかし創造した世界の帰趨を気づかう神だった。その試みを、哲学と神学の区別は保持しつつも、ホロコースト以後の神学の――「神は死んだ」神学、神の蝕、犠牲としてのユダヤ人、神とイスラエルとのあいだの信約の破棄等々の――さまざまな試みと並置することもできるだろう。この問いを一般化した標題のもとで扱うなら、(ヨナス自身の試みはそれではないが)神義論(弁神論)という標題が考えられる。
 『責任という原理』のなかで、ヨナスは価値多元社会を意識して責任原理をいかなる宗教的伝統とも結びつけずに説いた。しかし、自然のなかに目的が内在しているというその自然哲学(存在論・形而上学)は前提としている。自然主義的誤謬という考えが支配している20世紀の倫理学において自然に根拠をおく倫理学、形而上学を語るその試み、あるいは近代の機械論的自然観のなかで目的論的自然観を語るその試みはいかなる意味をもつのだろうか。
 しかしまた、責任原理を宇宙創成論と結びつけるとき、責任は神を前にして問われるものとなる。(西洋の伝統に根ざした思想である以上、それは潜在的にもつねに問われるものだが)超越をめぐる問いがあらわとなる。さらに、ヨナスはロゴスでは語り得ないことのなかで最も信憑性の高そうな見解をミュートスとして語るというプラトンの概念規定を踏襲して宇宙創成論をミュートスとして提示するのだが、現代において、ミュートスをあえて語る意義は何であろうか。
 ヨナス自身がユダヤ的伝統に明確に依拠した姿勢で記した論文は少ない。しかし、価値多元社会においてユダヤ的伝統に根ざした主張をすることの意味は何だろうか。最初に掲げた問いに通じているが、啓蒙化された、あるいはもっといえば、世俗化された現代社会のなかで特定の宗教的伝統に根ざした主張をすることの意味は何だろうか。そして、数ある伝統のなかで、とくにユダヤの伝統を格別のものとして語るその意義は何であろうか(それなしには、その伝統をたんに価値多元社会の一選択肢として語るにすぎないことになろう)。
 ヨナス自身はつねに「ユダヤ人であることと哲学者であることとのあいだの緊張」を感じ続けていた。だから、これらの問いにたいするはっきりとした答えがヨナスのなかに見出せるというわけではない。むしろ、これらの問いを析出するためにヨナスの思想を読み込むというほうが適切かもしれない。しかし、もし、上記の問いがユダヤを出自とする20世紀の哲学者や、アウシュヴィッツ以後のユダヤ的なるものの意義と格闘した哲学者に通有する問いだとすれば、ハンス・ヨナスという問いを触発として、それぞれの哲学者の試みた回答をとりあげて論じることは意味のないことでないだろう。」
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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