日本基督教学会・学術大会が終わって

 2日間の日程で開催された日本基督教学会・学術大会(関西学院大学)は、昨日、無事(?)に終了した。わたくし個人としては、二日のシンポジウムの司会を急きょ代役するなどの予定外のこともあったが、最大のことは、新しい本部事務局(関西学院大学神学)に正式に決まり、学会編集委員長の職務を担当することになったことである。学会誌編集委員長は、理事長(片柳先生)と専務理事(土井先生)とともに、三役を構成するものであり、他学会の学会誌編集委員長よりもやや重い職責になる(というわけで、気が重いというのが実感である)。一期二年の二期で、特に問題がなければ、四年間の役目である。日本基督教学会は、一方で順調に進んでいるものの、他方では懸案事項や問題も抱えている。学会誌に限定してもそうである。なお、来年度の学術大会は、桜美林大学を会場に、9月11日(金)、12日(土)の日程でおこなわれる。来年は、日本宗教学会を含め、関東・東京での学術大会である。

 さて、二日間の学会であるが、基本的には、午前の個人研究発表と、午後の公開プログラムとから全体が構成され、その間に、諸会議が行われるという形式である。午前の研究発表は、一部にアクシデントもあったが、それぞれの発表者の準備された研究発表がなされ充実したものであったと総評できると思われる。発表テーマが多岐にわたっていること、歴史研究に関連のものが増えていることなどは、ここのしばらくの傾向である。
 もちろん、発表者の個々人においては、当然反省点も少なくないかもしれない。日本宗教学会が迫っており、今回の日本基督教学会での研究発表を振り返る余裕はないかもしれないが、現時点にレベルで満足することなく、自分の研究の現状を冷静に分析し、次に備えることが重要である。特に、キリスト教学専修の学生には、この点を強く期待したい。

 次に、午後の公開プログラムであるが、初日(9日)は、次の公開講演が、二日目(10日)は、公開シンポジウムが、多くの聴衆の参加のものでおこなわれた。

公開講演:水垣渉「聖書的伝統としてのキリスト教─「キリスト教とは何か」の問いをめぐって─」
公開シンポジウム:「キリスト教研究の可能性」
   氣多雅子「宗教哲学の視点とキリスト教研究」
   深井智朗「キリスト教研究の可能性──キリスト教研究と市場」
   柳澤田実「身体から理解するキリスト教:振る舞いの妙に言葉を与える」

 公開講演は、「キリスト教とは何か」という水垣先生が追求されてきた問い(キリスト教研究の基本問題)に対して、暫定的と断ったうえで、「聖書的伝統としてのキリスト教」という回答を与えるという趣旨の講演であった。この問いと回答を繋ぐ議論は、キリスト教学が視野に入れるべきキリスト教的なものの歴史的多様性とその多様性が構築物・構造を有するものであり、そこから全体性(構造化した全体性)を論じ、そしてそれは聖書的伝統としてのキリスト教とした定式化できる、との展開であった。
 その間に、様々な議論・考察が織り込まれていたが、たとえば、翻訳の問題が「翻訳宗教としてのキリスト教」という仕方で論じられた。本ブログでも、翻訳は繰り返し取り上げられてきたテーマであるが、水垣先生の教えを受けてキリスト教とは何かを自分なりに考えてきたわたくしも、翻訳に注目することに関しては、基本的にはおかしな議論をおこなっているわけではないことが確認できた。
 結論的には、キリスト教とは、聖書を核にした構造化された全体性(近代以降キリスト教的複合体として存在する)の歴史的変動プロセスであり、その包括する領野は広範におよぶ。こうした議論は、歴史的事象(事実)の現象学的記述から得られたものであり、ここから議論は、哲学、神学、宗教学などを組み合わせつつ、さらに精密な展開がなされ、こうしたキリスト教研究の可能性が展望可能になるわけである。

 公開シンポジウムは、以上の展望をより具体的に論じる(現実的可能性)ものであり、哲学(宗教哲学)、神学(キリスト教の文化科学としての神学)、宗教学(生態心理学など)という視点から、多岐にわたる議論が提示された。その内容を簡単にまとめることは困難であるが、「近代以降」「日本」という場におけるキリスト教研究の可能性を常に念頭に置いて論じるとの問題意識が明確に共有されていたことは明瞭であり、キーワードの一つが「市場」であったことも注目すべきであろう。
 以上の問題設定は、フロアーの聴衆とも共有できるものであり、活発な質疑がおこなわれたが(時間的な余裕がもったればとは思われたが)、質疑においても、「市場」が議論の焦点となった。市場とは、現実の経済システムを指すものであると共に、今回のシンポジウムでは、現実を分析するために設定された発見のためのメタファー、つまり方法論的な分析用語としての市場という位置づけも与えられており、その点で論点の整理が必要であった。
 このメタファーとしての市場という議論の立て方は(これは経済学的な市場論とはレベルが異なる)、現代におけるキリスト教神学・キリスト教が置かれた状況を分析する上で、一定の有効性を有していることは、シンポジウムに参加の方は同意いただけるであろう。もちろん、問題はさらに先にある。メタファーという方法論的ツールの問題点は、その有効性と共に限界を知っている点である(質疑において、市場化されないものという議論があったのは、この点に関わる。教育や宗教を市場のメタファーで論じる場合の留意点である)。
 たとえば、現代の「キリスト教研究の学問市場」とは、巨大化したという面だけでなく、むしろ収縮しつつあるという面が問題になる。特に、日本において、キリスト教研究を含む人文学的な学問市場は縮小はおそらく大問題ではないであろうか。大学における人文学の位置が軽視されリストラされつつあること、キリスト教徒や聖職者が以前ほどキリスト教関連の書物を購入しなくなっていること、などなど。そもそも日本も総人口の急速な減少という事態がある。これを無視した市場論はあまりにも一面的であろう。
 次に、自由競争としてイメージ化された市場は、「自由」という面をクローズアップさせる点で重要な論点を含んでいるが、しかし、自由が無前提の事柄ではないこと、企投が被投的企投であり、自由が有限な自由(運命によって制約されそれに依拠した自由)であることは、おそらく、ハイデッガーやティリッヒ以降繰り返し論じらていたことであり、そもそも、現実の市場の観察からも確認できることである。自由な競争などどこにあるのか、自由な選択などどこにあるのか、と言いたくなる市場の現実である(自由な消費という面が存在することは否定しないとしても、わたしたち消費者は商品を選んでいるつもりで実は選ぶように操作されている)。
 市場という魅力的なメタファーをさらにリファインすることを試みてみたい。 
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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