ハンナ・アーレントについて

 ハンナ・アーレントは、現代のキリスト教思想にとって重要な哲学者の一人であり、わたくしも、さまざまな議論の文脈で言及することが多い思想家である。また、映画「ハンナ・アーレント」によって、日本でも注目度が高まっているようにも感じられる。

 岩波書店の『図書』(2014.12)に、徳永恂「アーレント「悪の陳腐さ」をめぐって」という文章が掲載されたので、内容の一端を紹介するとともに、コメントを記してみたい。

 徳永は、映画におけるアーレントの描写に違和感を感じたことを述べる中で(「われわれが引き継ぐべき方向と、さらに家族モデルを理想としない彼女の信念と喰い違ってきはしないか」24)、アーレントの「アイヒマン裁判」レポートに対する「アメリカあるいはイスラエルのユダヤ人の間から巻き起こった非難とバッシング」へと話しを進めてゆく。その非難は、「悪の陳腐さ」というアーレントの表現が、「ホロコースト(ショア)の極悪を、陳腐なものとして相対化して、アイヒマンを弁護しようとしたのではないか」というものと、「ユダヤの娘でありながらユダヤへの愛を知らない」(ユダヤ人団体の代表者らがゲットーでの収容所への移送や選別に協力したことを強調し、殉教した死者にむち打つような仕打ちを行った)というものとの2点であるとまとめた上で、徳永は、「それは、二つとも誤解であろう」 (25)と述べている。
 続いて、議論はきわめて興味深い展開を示すことになるが、細部は、実際にこの文章をご覧いただくことにして、ここでは、記憶に留めるために、印象的な文を抜き出しておきたい。 

「アーレントはそこに、カントの言葉を──拡大修正した形で──借りて、「根源悪」(das Radikalboese)の現出を認め、その現代における変容と普遍化に警告を発したのだと言えよう。」(26)
「じつはそこにこそ「たんなる理性の限界内」に止まらない、形而上学的領域に根ざした現代の暗闇がひそんでいる。」(27)

「二分法」について。「バーリアだからこそ成り上がりたいのだという意味では、両者は通底しており、また異文化への同化に成功しても、「自覚的バーリア」として居直っても、どちらも真に自己解放・本来的な自己実現に結びつかないという点では、共通している。」「被害者と加害者との関係はルサンチマンを介して循環する。」(27)

「アイヒマン・レポートでは、旧師の抽象的な「存在論的区別」という二分法を破って、「善悪の彼岸」にあった「根源悪」を「世界内」に引き出し、その陳腐で恐るべき姿を白日の下に曝した。私情を超えた「世界への愛」がそこにある。」(28)

 ハイデッガーの存在するものと存在との存在論的区別は、存在の歴史、真理という事柄を考えれば、単純な二分法に止まることは出来ないということであろう。いわゆる西洋の形而上学も、抽象的な図式的理解から具体性へと移すことによって論じる必要があるのではないだろうか。根源悪が世界内に現出するとすれば、その対極にある善あるいは神はどうなのだろうか。
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