キリスト教と神話5

 「キリスト教と神話」の問題を何回かにわけて取り上げてきた。ここで、ティリッヒの神話論でひとつの区切りとしたい。
ティリッヒの神話論は、1930年の「神話と神話論」(Mythus und Mythologie. RGGの項目)においてまとまった形で主題的に論じられ、それ以降もさまざまな文献(たとえば、1933年の『社会主義的決断』の神話論はきわめて重要)において取り上げられてきたテーマである。
 以下、特徴をまとめておきたい。
・神話論は象徴論(宗教的象徴論、そのまとまった最初の議論は1928年の『宗教的象徴』)を基礎にしている。
 これは、リクールにおいて、隠喩論からテキスト解釈学への展開がなされているのと同じ事情である。

・象徴論における指示機能と開示機能という議論は、神話論にも妥当する。指示機能に関して、象徴は記号一般に属すると言えるが、開示機能において記号一般の中で独自の位置を占める(あるいはこの点で象徴と記号から区別される)。この開示機能は、象徴がそれが指示するものに参与することを前提としている。そして、この参与こそが、プラトニズムに遡る「イデアと現象」との関係の存在論的基盤をなしているものであり、したがって、宗教象徴論においては、宗教的実在と象徴との存在論的関連性が問われることになるのである。これは、まさに実在論という議論を要求する。

・ティリッヒは神話に関する諸理論を、消極的理論と積極的理論にわけて整理し、みずからの神話論の思想的な位置づけを明確化しようとしている。消極的理論とは、心理学的あるいは社会学的な神話理論が代表的なものであり、特にティリッヒはフロイトの精神分析学的議論を繰り返し取り上げる。消極的理論とは神話の還元主義的理論であり、ティリッヒはそれが象徴の素材選択の理論(たとえば、神象徴として「父」が選択されるなど)としての有効性をみとめつつも、それによっては宗教的象徴自体の存立は説明できないと考える(つまり、実在論)。
 ここで、ティリッヒは積極的理論に目を移す。積極的理論に分類されるのは、カッシーラーの批判哲学的な神話論と、後期シェリングの「神話の哲学」の神話論である。この二つはティリッヒの神話論の前提と言うべきものであり、ティリッヒにとってきわめて重要なものである。
 カッシーラーの関連で重要なのは、人間の精神活動あるいは文化がそれ固有の形式性をアプリオリに有しているという論点であり、神話にも、人間の精神的文化的営みが生み出したものであるかぎり、科学、倫理、法、芸術などと並び、それに還元されない固有の形式が認められなべならない。それが、象徴形式と言われるものであり、神話が神話的象徴形式に基づく限りにおいて、それは他の象徴形式に基づく諸活動(心理的あるいは社会的)には還元されないことになる。これは、消極的理論を批判する論点としての意味をもつ。しかし、カッシーラーの議論の限界は、それによっては、神話の人間精神内部の固有な位置は主張できるとしても、神話によって指示され開示される「実在」(無制約的なもの、存在自体・・・として概念化される。「神」はその象徴表現である)の実在性までは論じることができない。ここで、ティリッヒが参照するのが、シェリングなのである(なお、カッシーラー自身が神話論でシェリングを取り上げている点もあわせて検討すべきであろう)。

・以上を、神話の批判的実在論とまとめることができるとすれば、それはいつくからの重要な論点を帰結することになる。まず、神話が人間精神の固有の象徴形式である限り、神話はそのあり方(内容)が変化しても決してそれ自体が消滅することはないということである。神話は人間的な現実性自体に属しており、形をかえて戻ってくるものなのである(近代の神話批判をこの点から考えればどうなるだろうか)。神話を論駁したはずの歴史学と科学とが、その内部から神話的思惟を生み出したとすればどうだろうか。これは、通俗的な「宗教と科学の対立図式」の再考を要求することになる。ティリッヒは、進化論と創造論のいわゆる対立を「宗教と科学の対立」は解していない。それは科学と疑似科学との、あるいは宗教と擬似宗教との対立なのである。

・批判的実在論は、キリスト教思想の側にも、大きな問題を提起する。キリスト教にとって「神話」はいかなる意義を有しているのか。神話の非神話論化(ブルトマンにおいても、厳密には「非神話化」ではなく「非神話論化」と解すべきであろう。定訳にかかわらず)はいかなる点で妥当あり、いかなる点で否定されるべきであるのか。ティリッヒは、非神話論化が、神話の字義的解釈を退ける点でその妥当性を認める(ティリッヒ自身は「非字義化」という表現を提唱する)。しかし、非神話論化がその神話の意義についての無理解から神話を消去できる、消去すべきと主張する限りにおいて、それに同意することはできない。

 いずれにせよ、現代のキリスト教思想における神話論は、これまでの多くの議論を踏まえつつも、新たな理論構築を試みねばならないことは確かである。そのためには、本格的な哲学的思惟が要求される。
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