思考とアポリア

 議論を積み重ねてゆくといつしかアポリアに陥ることがある。一定の問題設定で探究を継続してゆくと行き詰まりに行き着くことがある。
 思考とはそれ固有のアポリアを有する営みと考えるべきかもしれない。とすれば、思考の形によってアポリアを分類することも可能かもしれない。また、一定の思考に伴うアポリアは、それを別の思考の枠組みで見るとき、いわば擬似的な問題として解消してしまうかもしれない。発想を変える(別の角度から見る)とは、こうした意味を有しているようにも思われる。

 哲学については、おそらく古代ギリシャを歴史的起源とする思惟の営みと解することができるであろう。実際、古代ギリシャには哲学的思惟の原型を見出すことができる。

 まず、プラトン的思惟(思考1。プラトンそのものであるかは別にして)。
 哲学者が現に思惟しているところから出発し、そして上昇する。心はいわば十全な仕方で存在しておりそれが前提となる(魂の不死性)。心の内的な記述という仕方での内観が行われる。しかし、現実(自然、日常)との接続が確保できるとは限らない。
 次に、アリストテレス的思惟(思考2)。
 心を生成プロセスにおいて考え、自然から出発し形而上学へ進む。自然や日常の経験との接続はスムーズであるが、心を説明する点で困難が生じる。

 さて、近代的思惟の出発点において、デカルト的思惟(思考3)は、いわばプラトン的を基本にしつつも、それと思考2とをいわば統合することを試みる。しかし、思考3は、心と自然(身体)の二元論に立つことにより、思考1と思考2の統合には成功しない。心と身体(思惟と物)は二つの実体として、その相互関係が説明不能になる。
 この思考3の枠組みにとどまる限り、脳と心の関係論はアポリアを脱出できないことになる。

 思考1と思考3のラインに立つことにより、現象学は、思考2とその方向性に合致する自然科学とを客観化として退け、それによって、世界や他者の実在はアポリアを構成することになる。内面から脱出できない思考。

 以上のように、心と世界(身体)をどうつながっているかについて論じるには、二元論的な分裂から出発し後に両者を接合するのではなく、はじめから、両者がつながているところから出発する。これが発想を変えるということに実例である。
 こうして成立するのが、ホワイトヘッド的な思考4とハイデッガー的な思考5である。ホワイトヘッド的思惟はシステム論を基礎にし、ハイデッガー的思惟は意味連関を基礎にすると対照することは有益かもしれない。
 思考4は、心の生成を進化論的プロセスに位置づけ、心と世界を接合する(創発性を加える)。それに対して思考5が、心と世界を一つのものとして捉えるには存在史のようなものが必要なるのかもしれない。
 
 これらに対して、神学は、こうした生成のプロセスに発端に「神」を位置づける。これは、たとえば、始まり問題、摂理、悪といったアポリアを生み出す。
 
 以上は、問題設定自体が固有のアポリアを生むということの実例であり、問題設定自体がその内部で解けないアポリアを生み出す構造になっていると言うべきであろう。思惟は思惟に縛られているということである。

 こうした思惟の在り方において、哲学の存在意義は、批判的に考える訓練になる、思惟に固有のアポリアを発見するということにある。 
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