宗教哲学会・学術大会

 昨日、京都大学文学研究科を会場に、宗教哲学会の第7回学術大会が開催された。わたくしは、午前中と夕方に所用が入っていた関係で、午後のシンポジウムのみ出席することができた(この数年、同じ状況である。スケジュールが重なるのはしかたがないことである)。

 シンポジウムは、「身体と宗教」というテーマで、三人のパネリストの提題が行われ、その後、パネリスト間、フロアーとの質疑応答がなされた。

棚次正和(京都府立医科大学)「身心論の射程と祈りの変容」
杉本耕一(愛媛大学)「西田における歴史的身体と身体を越えたもの──盤山宝積の剣をめぐって」
魚住孝至(放送大学)「武道修行による身心の変容──ヘリゲル『弓と禅』を手掛かりに」

 それぞれ、よく準備された聞き応えのある提題であったが、特に魚住さんの提題はさまざまなことを考えさせるものであった。
 宗教哲学は「哲学」であり、そこで、宗教「経験」がいかなる意味をもつかは、いまだ明確な解明がなされていない古典的な問いであるが、魚住さん提題は、経験(身と心の変容の経験)が決定的な位置を占めることを示唆するものであり、弓道の事例に即した話しであり、かなり納得できる主張であった。宗教経験との突き合わせのない、概念の組み合わせと推論においてなされる議論は、いわば仲間内の言語ゲームであり、部会者には、しばしば何の議論をしているのか不明な言葉遊びのような印象すら生じることがある。かといって、「宗教経験のない」者が宗教を論じられないという主張にも問題がある。経験、特に宗教経験について十分な掘り下げが、なおも、あるいは更に必要というのが、わたくしの印象である。ともかくも、実定的な宗教との接点をまったく有しない「宗教」研究とは何であるかは、問われねばならない。
 
 これは、シンポジウムの内容には関係ない感想であるが、弓が弓「道」になるということは何を意味しているのだろうか。日本文化には、「・・・道」として精神化する傾向があるようにも思われる。武士道しかり。
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