自伝の意味

 自伝は、しばしば思想家を理解する上で重要な資料となる。実際、少なからぬ思想家が自伝を残しており、一般にも、自分の履歴を振り返る作業(=自分史)の意義は認められつつあるとも言える。思想研究にとって、自伝が重要であることは疑いない。
 キリスト教思想の観点から、こうした自伝の中でも最重要のものとして位置づけられているのは、アウグスティヌスの『告白』ではないだろうか。わたくしも、これまで「キリスト教と西洋文化」という視点から自伝文学を講義で取り上げる際には、アウグスティヌスを、聖書(旧約と新約)の諸文献(詩編とパウロ書簡)との連関を意識しつつ、論じてきた。自伝は「告白」というモチーフを含むことによって、思想の暗い源泉に迫る手掛かりとなるのであって、アウグスティヌスの『告白』はこうした自伝の系譜の原点であり頂点とも言えるように思われる。

 しかし、自伝=告白ということで留意すべき点も少なくない。そもそも人間は自己の内面をどこまで告白できるのか(告白する程度にまで知りうるのか。ここで告白テキストへ迫る方法論が分岐することになる。現象学的か、解釈学的か、あるいは精神分析的か)、また告白テキストに組み込まれた内的読者はだれなのか。自分か、親しい他者か、他者一般か、あるいは神か。

 自伝だけでなく、思想研究には、次の二つの両極端が想定可能であり、個々の研究は、これらの中間のどこかに位置することになる。
・テキストに関連した情報(自伝はここに含まれる)をすべて可能な限り収集し、それとの相互関係でテキストを読解する。歴史主義的立場から社会史的研究まで。
・テキスト自体の分析に集中し、そこからテキストの意味を再構成する。テキストの理解はテキスト自体の読解から行うべきであるとの研究態度や構造主義的分析を含めたいわば反歴史主義的立場。

 これらどちらも純粋な仕方では、おそらく成立できない。また、それぞれには真理契機と限界がある。しかし、いずれにおいても、伝統的な聖書解釈においてしばしば強調される「霊感」はしかるべき位置を有していない。宗教的テキストを読解する上で(あるいは聖書を翻訳する上で)、「神」はいかなる位置を占めるのか。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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