哲学と神学、20世紀後半の場合

 哲学と神学とが、西洋思想史の中で緊密な連関にあることは、いわば常識に属する認識であり、この点は近代以降、現代も変わりがない(はずである。この点に認識がどの程度共有されているかは別問題であろう)。この哲学の側にとっても無視できない事態のはずであるが(哲学者が神学の動向と意義を適切に理解しているかはさらに別の問題である)、神学の側では、かなり自覚的に捉えられていたと言ってよいであろう。
 森田雄三郎は、「現代神学の動向」(『現代神学はどこへ行くか』教文館)において、 「バルトやブルトマン、あるいはティリッヒやニーバーといったいわゆる大物が存在せず、まさに神学の戦国時代に突入した感がある」(32)と述べた上で、「六〇年代以後に現われた新しい神学的動向のうち有意義と思われるものだけを挙げるならば」として、「解釈学としての神学」、「歴史の神学(宗教学・宗教史の神学、科学論の神学)」、「希望の神学・革新の神学(解放の神学)」、プロセス神学の四つの流れを取り上げている。この四つの動向にそれぞれ相関的に位置づけられる哲学思想を読み取ることは容易であって、ここに、現代神学が現代哲学と密接な関係にあることを確認することが出来る。
 学としての神学が哲学を相関者として必要としており、キリスト教は自らの内から神学という営みを生み出す動態を有している、したがって、キリスト教は哲学との関係(間接的にであれ)を自ら必要としているのである。

 本ブログでは、このところ、「ハイデッガーとキリスト教」というテーマで連載を行ってきたが、ハイデッガーがキリスト教神学にとって問題になり続けてきたことの背後には、以上の事情が存在している。その上で、ハイデッガー哲学に一定の期待を抱いているからこそ、神学者の中にハイデッガーに魅力を感じる者が持続的に現れるのである。
 では、この期待は何から生じるのであろうか。それには、少なくとも、キリスト教神学の側に、ハイデッガーがキリスト教的伝統と多くを共有し、また時代の問いを共有し合っているとの認識があるからではないだろうか(ハイデッガー自身が、またハイデッガー研究者がそれをどう考えてるかは実に別問題ではあるが)。
 例えば、この点について、ハイデッガーを積極的に取り上げた同時代の神学者ティリッヒは、次のように述べている。これは、1954年の講演に基づく文章からの引用である。

Paul Tillich, "Heidegger and Jaspers,"(1954) (Alan M. Olson (ed.), Heidegger & Jaspers, Temple University Press, 1994, pp.16-28.)
And this leads me to my final point: When you deal with existentialists, don't go to them in order to find answers. The answers one finds in the later Heigdegger, for example, do not come from existentialism but from the medieval Catholic mystical tradition within which he lived as a seminarian. The answers one find in Jaspers come not from existentialism but from the classical humanist tradition or, more precisely, German Idealism; and the answers one finds in Gabriel Marcel come not from existentialism, but from classical Catholic orthodoxy. So also the answers one might find in Kierkegaard come from Pietistic Lutheranism, and in Nietzsche, from the philosophy of life with all of its romatic anbiguities and divine-demonic dimensions. Or if you take the early Marx and call him an existentialis, as I would do, then it is the classical tradition of the revolutionary sect going back th biblical propheticism which motivates him. (27)

 これは、哲学を「問い」の定式と関連づけるティリッヒの方法論とも関わる議論であるが、哲学者をその背後の宗教的伝統との関連で理解する態度は明白である。この理解があるからこそ、神学者は、自らが取り組む問いに対する優れた参照すべき洞察を期待して哲学に向き合うのではないだろうか。もちろん、これはいわゆる「哲学」に限定したことではなく、文芸批評でも、社会学ども、心理学でも、文化人類学でも、よいわけであるが。実際、ティリッヒは、これらすべてに哲学的要素を見出しており、このいわば広義の哲学が視野に入れられているのである。
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