日本キリスト教思想史研究に向けて2

 前回と同じ趣旨の記事です。今年度前期の特殊講義は、日本キリスト教思想史研究というテーマで行いました。これまで、さまざまな形で行ってきた講義の中間報告のようなものです。
 その中で、改めて浮かび上がってきたのは、「思想」の多様なコンテクストの問題、つまり、「思想史」と社会史や民衆史といった視点とどのように関連づけるのかということです。しかし、ここで生じる難問は、「民衆」をどのように思想的に論じるかということです。民衆、大衆、一般の人々、民、などなどさまざまな表現がなされるいわば「X」をどう捉えるかということです。
 現代のキリスト教思想でも、宗教社会主義論や解放の神学では、この「X」がしばしば問題として議論されました。たとえば、ティリッヒには、「大衆と精神」(Masse und Geist)という1920年代前半の論考があります。また、1970年代以降の韓国では、「民衆の神学」が提唱されました。

 もちろん、最終的な結論に至るには、まだまだ時間が必要ですが、もし、「民衆」「大衆」を歴史的仕方で論じるとすれば、次の安丸良夫の指摘が重要な意味をもつことになると思われます。

安丸良夫
『現代日本思想論──歴史意識とイデオロギー』
岩波書店、2012年。

 この論集に所収の「戦後史のなかの「民衆」と「大衆」」(2002年)の「はじめに」において、次のように論じられている。

「「民衆」・「大衆」という用語を明確に定義したり、実態存在として規定したりすることは難しい。」(61)
「こうした曖昧さにもかかわらず、私たちが「民衆」・「大衆」などと呼ばれる存在について考えることを避けて通れないと思ってしますのは、おそらく私たちが、ひとつの社会をあるまとまりにおいて捉えようとする志向性をもっているからである。」(61-62)
「「民衆」や「大衆」は、実体的というよりも方法論的概念であり、研究者が対象としている社会や歴史についてあるまとまったイメージを描くさいに不可欠な構想力にかかわる概念だといった方がよいだろう。」(62)
「全体性のための検出用概念として不可欠なのである。」(63)
「検討対象が社会全体からすればごく限られた少数者だとしても、例外者や少数者こそが歴史や社会の特徴をその切断面から開示して、全体的なものを鋭く照射し返すと考えてみることができるから、「民衆」や「大衆」とは、実態的には必ずしも社会のなかでの多数者である必要がないともいえよう。」(63)

 以上の引用の最後の部分は、さらなる考察が必要な議論を含んでいるが、日本キリスト教をテーマ化する意義は、そこから、「日本」「キリスト教」という全体を照射し返すことにあるということは、言えるように思われる。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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