日本キリスト教思想史研究に向けて3

 思想研究にとって必要なことは、意味を論じるためのコンテクストの設定である。そして、問題は、考慮すべきコンテクストが多様に存在し、単純にどのコンテクストが優位にあるかを決っすることはできない。時間軸に限定しても、テクスト成立に関わる過去、現在、未来、そして解釈者の過去、現在、未来という区分が可能であり、それぞれを個別的なコンテクストとして設定することが可能であり、これらの間の関連性(テキストの過去の未来と解釈者の現在など)がさらに議論されねばならない。

 こうした議論に関わるものとして、次の二つのものを具体例として挙げることができる。
・未思惟の思考:これは、わたくしが、ラカプラの議論(それはハイデッガーに遡及する)を参照しつつ波多野精一の『時と永遠』
について論じたものであり、次のようなものである。
「波多野の近代批判の射程は近代日本に及ばないのであろうか。
 波多野の文化的生への批判は、表面的には、近代日本との接点をもつことなく展開しているかに見える、しかし、波多野のテクストを脱構築することによって、そこに、近代日本の没落の運命の指し示しを、未思惟の思考、テクストの未来として読み取ることは、一つの思想史研究として成り立つのではないだろうか。 →戦争批判としての『時と永遠』。」
・宮田光雄「5 日本社会における福音宣教」「三 現代日本における《未克服の過去》」(『日本キリスト教思想研究』(宮田光雄思想史論集3)、創文社、2013年。)
「現代日本における《未克服の過去》=戦争責任の問題」(174)

 これらの議論は、過去が過去として完結しているんではなく、それ固有の未来を有していることを意味している。こうした議論を深化させるには、哲学的な時間論を視野に入れることが必要になる。ここで、思想史研究は哲学的思索と接することになる。

 たとえば、モルトマンの時間論は、こうした観点から検討すべきであろう。
Jürgen Moltmann, Gott in der Schöpfung. Ökologische Schöpfungslehre, Chr.Kaiser, 1985.

 波多野の時間論を含めて議論の骨格を示すならば、次のようになるだろう。

<単線的な時間図式(過去→現在→未来)を超えて>
進歩としての歴史
    ↓
アウグスティヌスの時間論:→意識の内的時間
記憶と期待を志向する現在
    ↓
波多野の時間論:
  他者としての将来が存在を贈与する
    ↓
モルトマンの時間論:
「過去/現在/未来」の複合的で多重的な循環関係
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
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