ハイデッガーとボンヘッファー

 これまで本ブログでも取り上げてきたように、「ハイデッガーとキリスト教」というのは、興味深い問題設定である。同時代のキリスト教の思想家たちとの関わりについては、バルト、ブルトマン、ティリッヒらが取り上げられ、さまざまな議論・研究が行われてきている。そこでは、20世紀の前半のドイツの思想状況が共有され、ハイデッガーとの距離や近さという点で、分析がなされる。バルトは通常、ハイデッガーとは対局に(しかし、意外な類似性もある)、そしてブルトマンは、人間学という理解における『存在と時間』と合致し、ティリッヒも両者の中間であるが、ブルトマンに近い、といったイメージである。

 しかし、これまでこの種の議論において、ほとんど取り上げられてこなかったのは、ボンヘッファーである(やや世代的には遅れるが、しかし、同時代であることは間違いない)。キリスト教思想とハイデッガーとの関わりについての本格的な取り組みの最初のものの一つは、ボンヘッファーの『行為と存在』(Akt und Sein,1931)、かれの教授資格論文である。ボンヘッファーは、19世紀(カント)以降の神学と哲学との関わりに思想史における20世紀の問題状況を整理し、組織神学の取るべき方向を大胆に提示した。この構図の中に、ハイデッガーは、バルト共に、位置づけられることになる。バルトは行為に、ハイデッガーは存在に、という配置であり、両者を統合する位置に「教会」が置かれる。
 これは、ボンヘッファーの組織神学的思索を理解する上で重要なものであり、また、ハイデッガーを神学がどのように理解しようとしたかについての欠くべからざる証言となっている。1930年代以降の、ハイデッガーとボンヘッファーとのそれぞれの運命を思うならば、この『行為と存在』は、さらにその意義を増すことになるだろう。
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