まさに雑感

 今回は、「雑感」のカテゴリにふさわしい、ややとりとめのない文章になります。大きくくれば、「学会」となるかもしれません。

・学術大会・研究発表
 9月は、さまざまな学会の学術大会が開催され、そこでは会員個人の研究発表を行われることが多い。特に、若手研究者にとっては、こうした研究発表は、自分の研究計画を遂行する上で(たとえば、博士論文に向けて)、またより実際的な意味でも(学会誌への論文掲載に繋がったり、あるいは研究業績となる)、重要な意味がある。なによりも、こうした場を経験することで、「研究する」ということを体得することが可能になる。
 もちろん、すでに常勤の教育研究職についている研究者にとっても重要ではあるが、しだいに、その意味合いは変わってこざるをえないように思われる。
 わたくしにとっては、まず、自分が研究指導している学生が無事に研究発表を行い、それにふさわしい評価を受けることが最大の関心であり(そのために、先週の金曜日・土曜日には、予行演習という仕方で研究指導を行った)、自分が発表するという意識はやや遠のきつつある。発表する側から、さまざまな意図で発表を聞き、評価する側への意識の変化である。

・「研究」とは何か
 研究発表、研究論文という場合の、「研究」とはどんな条件を必要としているのであろうか。学会で、学会誌の編集や学会賞の選考に関わることが多くなると、研究を評価することが重要な仕事となる。その際に、この「研究」というものをどう考えるかが問題になる(個人としても、委員会としても)。
 これについては、二つのことが指摘できる。一つは、「研究」の本質規定はむずかしい、特にキリスト教研究という範囲に限っても、「宗教哲学」と「聖書学」では、基準・条件が異なっており、そのすりあわせは容易ではない。
 もう一つは、それぞれの学会では、こうした作業を積み重ねる中で、しだいに「研究」を評価する基準が明確化されようになり、それを無視できないということである。問題設定の明晰さ、先行研究の検討、論の首尾一貫性・資料読解の妥当性、発表に値する成果の提示などなど。レポートや研究ノートと、論文との差異の意識が求められている。特に難しいのは、研究対象となる文献などのまとめとその延長線上での論述で十分かということである。たとえば、研究対象となる思想家の思想内容の批判的な分析がどの程度行われているのか、行うとすれば、それはどこに批判的は視点を設定するのか。論理の首尾一貫性といった仕方での、視野に入れられる事例の偏りや論がつきつめられていないこと、こうしたことについての批判的分析は、不可欠のようにも思われる。
 しかし、研究する立場としては、研究対象への批判的分析は、しかも公正な批判は、かなり難しい作業になるかもしれない。研究対象への適切な距離の取り方は、必ずしも容易ではない。

・博士論文の指導や審査、学会誌の掲載論文の審査、学会賞の審査、などは、審査する方も、かなりの負担となる。「研究」とは何か、その評価はどうあるべきかなどについて、繰り返し再考を余儀なくされ、扱われた文献をチャックするにも多くの時間を費やすことになるからである。ともかくも、審査する側もされる側も、納得できる審査結果が得られればと思うが・・・。

・博士論文については、一定以上の分量(字数)が必要となり、通常、かなり長期の雑誌論文や研究発表などの積み重ねの作業が必要になる。この際に、個々の論文や研究発表を一定の順序で配列すれば博士論文になるというのは、まっくたの誤解である(ブルトマンのGlauben und Verstehenは、論文集であり、それを提出されても、博士論文とはなtらない。しかし、Glauben und Verstehenは研究に値する論集である )。博士論文とはそれ自体が一つの論文であり、論文集ではないということである(先に「研究」条件としてあげた問題は当然として)。
 また、学会誌の書評対象としても、エッセイ的な文章を収録した論集を対象としないという基準がある(このあたりの判断も実査には難しい場合があるが)。

・しばしば、論文について、重厚さ(中身が濃い、という言い方もある)という仕方で評価されることがある。取り上げるに値するテーマをそれにふさわしい緻密さで分析し徹底して論じることは、その論文の評価を高めることになるのは、自然であろう(審査する方も研究者であり、論文が審査員の心を動かすものであるかないかは、評価を分ける)。
 しかし、わたくしとして、その前に、論の明晰さを要求したい。日本語としての過度の難解さ(日本語的に変な文章に出会ったりすると、読む側の意欲が減退する。この点を「重厚さ」と錯覚している人はいないだろうか)はよほど名文家として自信がない限り避けた方が無難であるし、特殊な研究領域でのみ通用する用語法や論法を自明のものとして使用するのも考えものである。読み手に論が明確に伝わること(この点についてはさまざまな工夫がありうる)、これは論文の条件である。
 論文を読むのに、あたかも研究対象を分析する際に要求されるのと同様の(あるいはそれ以上の)苦労が要求されるという場合には、その論文には、かなりの欠陥があると考えるべきではないだろうか。意味が通りにくい文章から苦労してなんとか文意をさぐることを必要とするものは、論文として未完成か(推敲不足)、論文として失敗であると言われてもしかたがないのではないか。
 バルトのテキストを苦労して読み進むことと、バルトについての論文をバルトのもの以上に苦労して読むこと(分析と推論を重ねてなんとか文意を探る)とは、まったく異なる作業であり、後者に意味があるかは不明である。
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 これまで本ブログは、2013年度より2015年度まで科学研究費の交付(代表者・芦名定道)を受けて行われた研究を中心に、キリスト教思想研究に関わる情報を発信してきました。しかし、2016年度からの新しい研究プロジェクトに関連した事柄は、主に別のブログで取り扱うことにし、本ブログでは、これ以外の記事について継続的に内容を更新します(新しい科研に関するものも、記事の継続性の観点から一部はこちらでも扱います)。
 なお、本ブログにもしばしばコメントが寄せられますが、多忙のため、原則として応答その他の取り扱いはいたしません。

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