ジェネラリストと人文学

 人文学が多様な知を内包していること、文学研究科にはいわゆる文系から理系までが存在すること、これらは、人文学がジェネラリストと無関係でないことを示している。
 昨日、東京大学(本郷)で、日本学術会議哲学委員会「古典精神と未来社会」分科会主催の公開シンポジウム「ジェネラリストと人文学」が開催され、わたくしも、日本学術会議連携会員としてこの分科会のメンバーであることから、このシンポジウムに参加した。ジェネラリストが細分化された諸学の境界線を越え、知の統合に関わるものであるとすれば、それは、本ブログのテーマである、「自然神学とその拡張」にも直結することになる。

 シンポジウムの内容は以下の通り。
・開会挨拶 (小島毅)
・趣旨説明および問題提起 (葛西康徳)
・報告1 「国家公務員と人文学」 (大下政司・人事院人材局長)
・報告2 「外から見た日本のグローバル教育とジェネラリスト養成」 (田作朋雄・PWCシニアアドバイザー)
・コメント (頼富信留)
・総合討論
・閉会の辞 (岡田真美子)

 国家公務員試験や研修の実態や企業での人材養成など、人文学を外から、隣接の領域から見る機会となり、充実したシンポジウムであった。やや内輪の会という形になったのがもったいなかったとも言える。

 シンポジウムの報告やコメントを聞いていると、東大と京大の相違、文学と法学の相違などにも改めて気づかされるわけであるが、どうしても、気になるのは、京都大学文学研究科/文学部の状況である。
 京都大学文学研究科の基本は、スペシャリスト養成(研究者養成)にあり、文学研究科全体が総合的な知の世界ではあっても、教育の場はスペシャリスト的な形態となっている。しかし、学部教育はそれでよいかといえば、おそらくそうは言えないはずである。少し前まで、多くの授業は大学院向けであり、それを学部生の共通にするというのが基本的発想だったわけであり、現在も、それを十分に脱却できないでいる。学部教育を真剣に問い直すことなしには、人文学不要論に正面から答えることは難しいと思われる。

 話題は、欧米との比較での日本の入学試験のあり方や卒論の意義にまで及んだが、日本の教育水準を本気で挙げるには、高等教育への公的支出を飛躍的に伸ばすしかない、奨学金を実質化し充実させるすかない、ということではないだろうか。予算は出さないが精神力でがんばれでは、戦前の繰り返し。

 京大文学部生も国家公務員を本気で目指すということがあってよいとの印象であった。
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