アガンベン・メモ3

久しぶりに、アガンベン『いと高き貧しさ──修道制規則と生の形式』(みすず書房)から、メモの続きです。

「修道院の規則が法律的性質をもつかどうかという問題」
「すでに法学者や教会法学者も自分たちの集成のなかに修道院生活の戒律があることに気づいていたようで・・・」(38)
 これが当面の問題。

「修道士たちを罰することは、医者によって処方される治療法にたとえられるような、本質的に道徳的な矯正的な意味をもっていたということ」
「医者のイメージ」(42)

「バシレイオス」「手仕事のアナロジー」
「規則の全用語は、古代後期から中世における学校や職人工房で使われていた一連の語彙を思い起こさせるこの技術関連の用語使用域のなかに収められている。」(43)
「技のパラダイム」「修道院はおそらく、生そのものが」「ひとつの技芸として提示されていた最初の場所であったのだ」、「不断の実践との関連における自らの生の定義という意味に理解されなければならない。」(44)

「修道院の戒律およびその違反のまったく特殊な性格」(45)
「修道院長の裁きと刑事裁判との、一見したとっころさもありなんと思われる類似性は、ここにおいてまったくその信憑性を失う。」(46)
 これが難問となる。
「規則の義務性に関わる問題のもうひとつの立ち方は、規則と戒律の関係に関するものではなく、義務の性質そのものに関する者であって、違反が致命的な過ちであるという意味で罪に(ad culpam)問われうるものであるか、それとも違反は処罰に値するが致命的な過ちではないという意味でたんに罰に(ad poenam)付しておけばよいのか、という点が論点となる。」
「単純に処罰的な法律の存在の問題を最初に主題化した人物はガンのヘンリクスである。」(49)
「ガンのヘンリクスが右に想定したような問題が修道院規則の法的性質の問題に変わっていったのは、後期スコラ哲学のころ、十六世紀に入ってからであったことは、注目に値する。」
「アラゴンのペドロ」「修道士たちの規則は真の意味での法律ではなく、どちらかといえば勧告や助言である。」
「スアレス」「法律は罰則だけを制定することもできるたえm、修道士たちの規則は助言ではなく、真の意味での法律である。」(50)

 ここで、法と法以前という問題が明確に論じられることになる。

「修道院規則と法の関係の問題」「請願の宣立をおこなうことが要件とされるようになったという事実」
「請願の宣立は、神への誓約と同じように、ルネ・ジェルネが不適切にも「法以前」と呼んだ、法と宗教を区別することが不可能であった古代の領域に属するとみられる制度である」、「古代ローマ」(50)

「誓いを宣言する者は、義務を帯びたり刑に処せられたりするというよりは、少なくとも執政官のデーウォーティオーという極限的な場合においては、ホモ・サケル(homo sacer)になるのであって、彼の生命は黄泉の神々のものである以上、彼はもはや本当には生命ある者ではなく、生と死の閾に住んでおり、だれが殺害しても罰せられることはないのである。」(52)

 ホモ・サケルというテーマが、こうした浮上することになる。
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